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カラーユニバーサルデザイン

世の中には,一見すると健常人と区別が付かない障害を持っている人がいます.内部障害や内臓疾患がそれに該当し,UCももちろん見えない障害の1つと考えられます.そのため,色々と布教活動をしています.

目が見えない方は杖を持つというシンボルがあるのでわかりやすいのですが,耳が聞こえない方は特にそれといったシンボルはありません.そのため,難聴に対する理解も得られにくいです.

そして,今日は色弱について,啓蒙したいと思います.題材はカラーユニバーサルデザインです.

色弱とは

色弱とは,そもそもなんでしょうか.勉強前の私の解答は「色を正しく認識できない人」です.間違ってはいないと思いますが,正確な理解こそが助けとなります.CUDOの説明を噛み砕いて,以下に説明します.

ヒトの眼の網膜には,錐体という光を感じる視細胞があります.錐体には3種類あり,L錐体(赤錐体),M錐体(緑錐体),S錐体(青錐体)がある.この錐体は,血液型のように,生まれつき5つのタイプに分類されます.

  • C型 95% 一般色覚者
  • P型 1.5% 色弱者
  • D型 3.5% 色弱者
  • T型 0.001% 色弱者
  • A型 0.001% 色弱者

C型は3種類の錐体が全て揃っています.P型はL錐体がないか,または分光感度がM錐体に近くなります.D型はM錐体がないか,または分光感度がL錐体に近くなります.T型はS錐体がなく,A型は3種類のいずれかの錐体しかないか,またはいずれの錐体もありません.T型とA型は10万人に1人程度ですが,P型とD型は合わせて5%程度おり,20人いれば1人はいるという割合です.教室が30人規模であることを考えれば,1人は色弱者がいるであろう割合です.

では,これら色弱者にとって,色はどのように見えているのでしょうか.以下に例を挙げます.

色覚タイプの特徴より引用.

このように,赤と緑はそのように見えていないことがわかります.

ユニバーサルデザイン

ユニバーサルデザインの7原則は以下の通りです.

  1. 公平な利用
  2. 利用における柔軟性
  3. 単純で直感的な利用
  4. わかりやすい情報
  5. 間違いに対する寛大さ
  6. 身体的負担は少なく
  7. 接近や利用に際する大きさと広さ

広義では,アフォーダンスも含まれるのではないでしょうか.

カラーユニバーサルデザイン

色についてのユニバーサルデザインが,カラーユニバーサルデザインです.色覚バリアフリーと言われることもあります.カラーユニバーサルデザインは次3つのポイントがあります.

  1. 出来るだけ多くの人に見分けやすい配色を選ぶ
  2. 色を見分けにくい人にも情報が伝わるようにする
  3. 色の名前を用いたコミュニケーションを可能にする

カラーユニバーサルデザイン(CUD)

これらを満たせば,カラーユニバーサルデザインの資料を作れるでしょう.では,どうやるのか?この分野の専門家がそれを示しています.推奨配色セットは以下の通りです.

カラーユニバーサルデザイン推奨配色セットより引用.

このような配色セットがあれば,安心ですね.ちょっと見てみると,赤はRGBが(255,0,0)ではなく,(255,40,0)とちょっとGを混ぜているところがポイントのようです.赤,青,緑の錐体が正しく機能しないので,原色は使わないというのが原則でしょう.

また,色覚シミュレーションを行うツールもいくつかあるようです.身近なところでは,Adobe Photoshop/Illustrator CS4以降にその機能があるようです.

教育的配慮から

このように,教室全体の5%程度が色弱者である可能性があり,教育的配慮から,カラーユニバーサルデザインを採用することは望ましいと思われます.特に,教育機関ならではの問題も起こります.それは黒板です.黒板は黒い板とは書くものの,実際には緑色です.その黒板にチョークを使って板書をするわけですが,重要だと思う箇所を何色のチョークで書くでしょうか?一般的に考えると,赤でしょう.しかし,先に示したように,赤と緑は色弱者にとって区別が付きにくいです.つまり,この組み合わせで書かれると,何も書いていないように見えるのです.こんなものは,強調でも何でもありません.現在では,カラーユニバーサルデザイン対応のチョークも販売されています.ホワイトボードの場合では,黒と赤,緑と赤,の組み合わせは見分けづらいようです.

では,プロジェクタを使う場合はどうでしょう.同じです.同じ配慮が必要です.さらに,レーザーポインタを使う場合,赤色レーザーポインタは区別が付かないそうです.そこで,緑のレーザーポインタが推奨されています.それから,もっと注意しなくてはいけないのは,グラフです.一般的に,プレゼンなどで用いるグラフは色の違いで視覚的に見せることが多いです.ところが,カラーユニバーサルデザインを考えたとき,その配色は適切でしょうか?福島県のCUDガイドでは折れ線グラフの実例を挙げて,その問題点と対策を示しています.これらをまとめた福島県のカラーユニバーサルデザイン ガイドブック(PDF注意)がとても参考になります.

このように,教員は講義資料や配付資料などの配色に十分に気をつける必要があるでしょう.

まとめ

教員の方々は,経験的にカラーユニバーサルデザインを取り入れていると思いますが,まだまだ駆け出しの私にとっては,学ぶことばかりです.教育をするにあたって,多くのことを勉強したつもりではありますが,まだまだ全然足りておらず,大学教員として教授職に相応しいとは言えません.まったく勉強の足らない自分に苛立ちを感じる日々です.無力です.

参考

コピペレポートは何故ダメなのか?

もう何回かコピペレポートの是非について言及している気がするけど,また言及する.今回は「コピペはダメか」ではなく「コピペレポートはダメか」について論じたい.というのも,「コピペ」を「ダメだ」の一言で断罪するのは難しい.何故なら,大学教員のみならず,コンピュータを使う多くの人はコピペを行っているので,それを棚に上げて,単純に「ダメだ」では片付けられない.当然ご存じであろうが,論文誌に掲載される論文だってコピペは当然使われる.使わずに書かれた論文なんてあるのだろうか?問題なのは,コピペではないのである.今日はその観点からコピペレポートのダメさを指摘する.先に結論を述べると,「学生はコピペなどせずに,実直に学びなさい」というのが私の不変の回答である.

定義:コピペレポート

まず,共通認識として,コピペレポートとは何であるかを定義します.このエントリでは「コピペレポート」を「大半がコピペで構成されたレポート,または丸写しのレポート」とします.コピペをしているが,大半ではなくレポートの一部に限局しているものは,コピペレポートとして扱いません.

著作権と引用

まず著作権法の関連箇所を引用し,根拠を明確にします.関連が強いのは第三十二条と第三十五条です.

(引用)
第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
2  国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。

(学校その他の教育機関における複製等)
第三十五条  学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
2  公表された著作物については、前項の教育機関における授業の過程において、当該授業を直接受ける者に対して当該著作物をその原作品若しくは複製物を提供し、若しくは提示して利用する場合又は当該著作物を第三十八条第一項の規定により上演し、演奏し、上映し、若しくは口述して利用する場合には、当該授業が行われる場所以外の場所において当該授業を同時に受ける者に対して公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

著作権法

まず,第三十二条を見ましょう.これは「引用」の範囲をしめしています.まず,引用できるものとして「公表された著作物」である点に注意して下さい.早くもこの1点によって,コピペレポートの一角である丸写しレポートはダメであることがわかります.そもそも引用じゃないという批判があると思いますが,レポートは「公表」されていませんので,引用することはそもそもできません.ですので,後述しますが,これは剽窃となります.

また,引用する場合においても,「引用の目的上正当な範囲内」という制限があります.この「正当な範囲内」とはなんでしょうか?

引用される部分が「従」で自ら作成する著作物が「主」であるように内容的な主従関係がなければなりません。

はじめての著作権講座

主従関係がなければならないと指摘しています.つまり,引用する部分が自らの主張する内容を補助する役割がなければなりません.要するに,ほとんどが引用で,自らの主張がない,または少ないものは,引用と認められないということです.

さらに,引用に関する要件として,以下が挙げられています.

  • 公表された著作物であること
  • 明瞭区別性
  • 主従関係
  • 出所明示
  • 引用する側も著作物であること

「引用」に名を借りた著作権侵害(リンク先PDF注意)

この指摘によれば,引用する側も著作物でなければならないので,コピペのみで構成されたレポートは著作物に該当しませんので,引用は認められません.また,出所明示も当然のことです.これは,自らが剽窃をしていないことを示すとともに,読者がその原典を辿りたいと思ったときに,見つけるための助けとなる情報です.正確に記されるべきです.

剽窃行為

次に,引用に似た行為である剽窃行為について述べます.引用は著作権法によって認められた正当な行為ですが,剽窃は犯罪行為です.剽窃は以下のように定義されます.

盗作(とうさく)とは、他人の著作物にある表現、その他独自性・独創性のあるアイディア・企画等を盗用し、それを独自に考え出したものとして公衆に提示する反倫理的な行為全般を指す。「剽窃(ひょうせつ)」とも呼ばれる。

盗作 – Wikipedia

ザクッといえば,引用の範囲を逸脱するなどして,著作権を侵害する行為全般を指します.そして,著作権法第百十九条では以下のように書かれています.

第百十九条  著作権、出版権又は著作隣接権を侵害した者(第三十条第一項(第百二条第一項において準用する場合を含む。)に定める私的使用の目的をもつて自ら著作物若しくは実演等の複製を行つた者、第百十三条第三項の規定により著作権若しくは著作隣接権(同条第四項の規定により著作隣接権とみなされる権利を含む。第百二十条の二第三号において同じ。)を侵害する行為とみなされる行為を行つた者、第百十三条第五項の規定により著作権若しくは著作隣接権を侵害する行為とみなされる行為を行つた者又は次項第三号若しくは第四号に掲げる者を除く。)は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

著作権法

著作権法を犯したものには,罰則規定があります.よって,剽窃は犯罪行為です.

コピペレポートは何故ダメなのか?

では,これらの前提を元にして,コピペレポートが何故ダメなのかを外堀を埋めながら説明していきます.再度,コピペレポートの定義を整理します.本エントリにおけるコピペレポートというのは以下のいずれかのレポートを指します.

  1. レポートの大半が単一のまたは複数の著作物からコピペで構築されたレポートである
  2. 他人のレポートを丸写ししたレポート

まず,コピペレポートに限らず,多くのレポートは引用が正しく行われていません.具体的には,出所が明示されていなかったり,引用部分が明確でなかったり(明瞭区別性)します.そのため,そもそもコピペかどうかのいかんに関わらず,引用に問題があるといえます.

そこに,殊更にして,コピペレポートは引用元を明示しません.正確に言えば,明示できないのです.何故ならコピペだからです.丸写しだからです.もし,引用であるならば,出所明示するべきです.「○○実験のレポート.○○太郎,2011.」とか.しかし,それも引用の認めるところではありません.先に示したように,引用が認められる範囲は「公表された」著作物です.レポートは提出しますが,公表されていませんので,引用の要件を満たしません.よって,過去レポを引用しようとする行為は不可能です.もし,公表された著作物としての過去レポがあるのであれば,出所明示をして引用したら良いと思います.

丸写しのレポートは最早議論の余地は皆無で,剽窃ですので,犯罪行為です.我々教員は学生を犯罪者にするために教育をしているわけではないので,ぶん殴ってでも止めさせる必要があると,私は考えます.

次に,複数の過去レポをベースとして,コピペがばれにくいように構成されたレポートはどうでしょうか.もちろん,出所明示されていないので,引用と認められませんので,剽窃です.しかも,複数の過去レポをコピペしているだけなので,引用の要件である主従関係ももちろん満たしません.

よって,いずれの方法を用いても,コピペレポートが認められることはありません.

教育的観点からみるコピペレポートの害

コピペレポートが蔓延しているということは,つまりそれは学生自身が犯罪行為を行っているという自覚に乏しいことを意味します.以下,孫引きですが,思春期・青年期の心理臨床 p.98より,非行概念の模式図を引用します.

コピペレポートは広義の意味で非行に該当しますので,食い止めなくては反社会性が増し,虞犯ひいては犯罪に手を染める可能性がでてきます.つまり,善悪の見境が付かなくなる可能性があります.これは教育機関の目指すところではありません.正されるべきです.

では,学生は何故コピペレポートを是とするのでしょうか.そうなってしまう原因の1つには,教師側が正当な評価をしてくれないことが考えられます.つまり,独自に考えて書いたレポートよりも,コピペレポートの方が高評価である,またはコピペレポートでも単位をとることができるという現実が実在しています.これに対して,我々教員は毅然たる態度で立ち向かわなくてはなりません.学生が犯罪を犯そうとするその片棒を担いではいけません.そのため,我々教員は以下のいずれかの対応をとる必要性があるといえます.

  1. コピペレポートを受理しない毅然とした態度を示す
  2. コピペではレポートが作成できないように工夫する

このいずれでも良いと思いますが,私は後者の方法を採用しています.何故なら,レポート受理は私が行う権限がなく,あくまで評価を行う立場にあるからです.そのため,この負の連鎖を断ち切るためには,後者を採用するしかありません.具体的には,レポートにおける考察課題を換えています.にも関わらず,何も考えることなく,過去レポを出してくる学生がいるので,異なる課題を考察しているという,実に滑稽な事象があります.我々の教育意義とはどこにあるのでしょうか.

さて,それはそれとして,教育的観点からコピペレポートを排除したいもう1つの理由は,コピペでは何も学習されないからというものもあります.スポーツを考えれば直感的に理解できると思います.スポーツではいくら理論を学んでも上手くなりません.身体を実際に動かして経験しなくては成長しません.勉強でも同じです.理論ばかり学んでも,なかなか身につきません.そのため,演習問題を解いて,実際に使ってみて学ぶわけです.それがコピペではどうでしょう?答えを写してくるわけですから,答えは合います.導出過程もコピペしてくれば,そこの途中点も入って満点となるでしょう.でも,その解法を理解しているわけでも,解けるわけでもありません.ただ,答えをそこに書いただけです.これでは達成度は測れません.教員側からは達成度が測れないだけで済みますが,学生側からすれば自分を誤魔化して騙しているわけで,最終的に理想と現実のギャップに見舞われます.大学卒業して働き始めた社会人がよく言う言葉に「学生時代にもっと勉強しておけば良かった」というのが,これです.しっぺ返しは必ずきます.働きながらさらに学ぶ苦労を買うか,学生時代からコツコツ積み重ねるか.時間が有限であることを考えると,コツコツ積み重ねる方が賢い選択のように思えます.

そのような事情から,レポートは書いて欲しいのです.手書きが望ましいとは思いますが,時代を考えればワープロでも良いでしょう.でも,自分で考えて書いて下さい.過去レポが目に入ることもあるでしょう.見るなとはいいません.見ても構いませんが,写さないで下さい.過去レポを読んで理解して,噛み下し,自分の言葉で書いて下さい.それはコピペではありません.自分の言葉ですから.

これが手書きだと,別の問題が出てきます.書き写すのが面倒くさいという問題です.そうすると,なるべく写す箇所を少なくしようと考えるわけです.そうすると,何が起きるかといえば,不要な箇所がどこかを考える,という思考が働きます.これは学習効果上,意味があることです.どこがいるのか,どこがいらないのか.これを考えられるということは,一定の理解をしていなくてはできません.

もう1つコピペが与える害を述べます.それは文章構成力の問題です.恐らく,過去の教育過程において,大学レポート級の文章を書く機会はなかったのではないかと思います.文章構成力,論理的思考など,色々な要素が必要になってきます.今の学生は,我々よりもよっぼど多くの文を書いていると思います.それは,チャットだったり,メールだったり,ブログだったり,ツイッターだったり.でも,それらはいずれも「文」であり「文章」ではないのです.そのため,箇条書きはできても,文章で表現することはできないのです.これは,トレーニングしなくてはできるようにはなりません.レポートはその機会の1つといっても過言ではありません.本来はそのような目的はないはずなのですが・・・.

まとめ

コピペレポートは百害あって一利なし.そうでなくてはならない.我々教員は,コピペレポートがいかにダメであるかを学生が理解するまで説明し,やめさせなくてはならない.そして,コピペレポートには毅然とした態度で挑まなくてはならない.教育者として最低限なすべきことだと思う.

授業研究と学習過程(’10)

今学期受講している5科目のうち,「授業研究と学習過程(’10)」を聴講し終えたので,簡単なまとめをしておく.教育者としての基本的素養だった.

知識社会における学習と学校教育

国際的動向の中で,TIMSSやPISAなどの国際学力調査や国内での教育課程実態調査が行われてきている.日本ではこれらのテストで測定される,習得された知識や技能としての学力が低下している.また「学びからの逃走」といわれるように,学習に対する意欲も低下している.

この学習意欲や学力の低下,特に学力格差に対応し,全ての子どもたちが公教育である学校での授業に能動的に参加し,どの子もこれからの時代に必要なキー・コンピテンシーを習得できる質の授業を行うことが求められている.

OECDは知識基盤社会に求められる3つのキー・コンピテンシーとして,知識や技術だけではなく,様々な心理的・社会的なリソースを活用し,特定の文脈の中で複雑な課題に対応できる力の育成を国際的に求めてきている.

  1. 社会・文化的,技術的ツールを相互作用的に活用する能力
  2. 多様な集団における人間関係形成能力
  3. 自律的に行動する能力

OECDが2000年に実施した,15歳生徒の学校への取り組みとしての「参加度」と「帰属意識」の調査結果によると,日本,韓国,中国という東アジアの子どもたちが共通して,物理的に学校には出席しているが,学級や学校への帰属意識は他の国に比べて低い状況にあることがわかる.東アジア型の教育とも呼ばれる一斉型の授業形式が,現在の子どもたちの要求やこれからの知識社会の学習にあっているのかを考えていくことが必要になる.

知識社会の学習環境デザイン

学習科学の研究者であるSawyerは,20世紀の産業主義社会に対応する伝統的な学校教育のあり方を「教授主義」と呼び,それと対比して21世紀の知識社会の学習のあり方を示している.教授主義では「知識は正解に関する事実と問題を解決する手順から構成されている.学校教育の目的はこれらの事実と手順を生徒たちの頭に入れることである.教師はこれらの事実と手順を知っており,それを生徒に伝えることが仕事である.比較的単純な事実と手順から始まり,次第により複雑なものが学ばれる.この単純さと複雑さの基準や定義,教材の適切な配列は,教師や教科書の著者や数学者,科学者,歴史学者などの専門家によって決められる.学校教育の成功とは,生徒たちが多くの事実と手順を身につけていることであり,それはテストによって測定される」という見方で構成されてきたという.これに対し,21世紀の学習科学では次の点がポイントになる.

  • より深い概念的な理解を大事にする.
  • 指導法だけでなく,学習に焦点をあてる.
  • 学習環境を創る.
  • 学習者の既有知識に基づく環境.
  • 省察を促す.

「学習者中心」とは,生徒たちが教室に持ち込む知識や技能,態度などに関心を払い,授業の場で生徒が思考し学習するのに適した学習課題やその課題の提示順序,生徒が好む学習活動や得意とする活動などに配慮して学習活動を組織していくことである.

「知識中心」とは,断片的な知識が問題の表層的な面に注目した浅い理解にとどまるのに対し,根本的な原理や中核となる概念間の関連付けに注目し,学習方略なども含めて教えていくことを目的とすることである.

「評価中心」は,指導する前の事前の診断や最後の総括的な評価だけではなく,学習の過程において形成的に評価する機会を準備することで,教師と生徒の両者が,学習の向上を自分の目で捉えられる工夫をすることである.

「コミュニティ中心」は,学校や教室の中に,ともに学び合う仲間意識や規範が成立するように,互いの知識を説明や質問を介して共有したり,相互にヒントを与え協力して問題解決に取り組むなどの活動を授業の中に積極的に入れていくことである.

深い理解を促すには,断片的な知識ではなく,すでに持っている知識と学んでいる知識間がきちんと統合されていく授業が求められている.この知識統合のためには,

  1. 学習者が現在持っている知識や考えを引き出す,
  2. 新しい知識や考えが与えられる,
  3. 自分の知識や考えを,規準を持って自分で評価する,
  4. 自分の持っている知識や考えを分類したり整理する

という活動の過程が,カリキュラム,単元,授業に組み込まれていることが必要となる.

教師の授業に対する信念と行動

教師は,自らの被教育経験や教職経験を通して学習に対する信念を暗黙のうちに形成してきている.信念は「~すべき,~するとよい」というように知識や行動を方向付ける心理学的に価値づけられた認識である.必ずしも常に一貫しているわけではなく,あることについて何がよい,正しいと思っているかの認識である.

子どもの自立性を支援すべきと考えている信念が強い教師と弱い教師では,算数授業で自立性支援高群の教師は発展的な開かれた質問が多く,児童同士間でのやり取りが高いのに対し,低群の教師は教師が主導権を握ることが多く,教師が質問し子どもが答えるパタンが多いことが具体的に示されている.

課題への認知的興味・意欲と深い関与

新奇な情報や複雑な情報が多すぎず複雑すぎず,単調すぎない,ほどよい複雑さと適切な量と質の情報に対して,学習者は興味を持つ.一般的には,既有知識と情報の間にずれや葛藤,矛盾が生じたときに意外性や驚きとしての不均衡が生じ,その曖昧さ,不確実さ,複雑さの不均衡を解消しようとして新たな情報を探索するようになる.興味にはその場で生じる「状況的な興味」と,分野や内容には私は興味がある,得意であるということから継続的にもたらされる「個人的興味」がある.

学校での活動や授業での学習に興味や意欲を持ち,集中し没頭する機会や時間を長く保証することが学業成果や学校での行動に影響を与えることが示されてきている.参加しているという「行動的関与」,教師や仲間,課題と自分が繋がっているという感覚や好き嫌いのような「感情的な関与」,そして複雑な考え方を理解し,難しい技能を取得しようと注意を払い熟慮しようとする「認知的関与」の強さと持続期間が,学習行動を変え,教育の質に影響を及ぼす.授業の導入において興味や意欲を歓喜すればよいということではなく,授業や単元において深く関与し続ける課題や過程の質が問われているのである.

学習者が形成する学習観と学習方略

学習動機には,功利的に捉えるか,内容自体に関心があるのかという次元があり,後者の内容関与的動機には充実思考,訓練思考,実用思考といった内容が含まれ相互に関連性があることが示されている.

学習効果を高めるために意図的にとられる行動を,心理学では「学習方略」と呼ぶ.学習方略には,大きく分けるならば,ある情報をより深く認知処理するために学習の対象への関わりのために使用する方略,自己の理解過程を対象にしてモニタリングや評価修正のために使用する方略,また時間や環境,他者など自分を取り巻く環境の側への関わりに使用する方略に分けることができる.

知識の学習

知識は,宣言的知識と手続き的知識の2種類に大別することができる.宣言的知識とは,例えば「地球は丸い」「平行四辺形とは向かい合う二辺が各々平行な四角形である」というように,言語で事実が記述でき,その各々の正誤が判断できる知識である.手続き的知識は「分数の割り算のやり方」「跳び箱の跳び方」など,「もし~ならば~せよ」というようなIf-thenルールと呼ばれる形で手順を記述できるが,必ずしも全て言語化できるとは限らず,長期的反復練習することで習得できる場合が多い知識である.前者は「わかる」知識,後者は「できる」知識といえる.

断片的内容や手順の記憶だけではなく,原理や概念枠組みを深く理解することが,知識をいつでもどこでも使えるよう活性化し,転移を促す.一方,一夜漬けではすぐに忘れたり,利用できなくなったりすることが多い.学んだつもりの知識が,学習法が不適切であったために失われることは,知識の剥落現象と呼ばれる.カリキュラムをこなして教えたつもりでも,生徒側が知識をネットワーク化して構成し定着していなければ,生きた知識となって働かない.したがって,生徒が知識を自ら活用して問題解決や原理を発見する学習活動などが求められるのである.精選された内容を深く関連付けて理解していく活動が重要である.

問題解決の過程

問題解決とは,解き方のわからない問題を解く過程を指す.心理学では一般的に,「生活体が,何らかの目標を有しているが,その目標に到達しようとする試みが直接的にはうまくいかないという問題場面において,目標に到達するための手段・方法を見出すこと」を問題解決という.

よく定義された問題の解決方法には,アルゴリズムとヒューリスティックスがある.アルゴリズムとは,問題解決のための一連の規則的な手続きのことである.ヒューリスティックスとは,ある問題を解決する際に,必ず解決できるとは限らないが,うまくいけば解決に要する時間や手続きを減少させることができるような方法である.

問題解決の過程について,ブランスフォードらはIDEALという考え方を示している.ブランスフォードらの狙いは,専門家が持つような問題解決への分析的な視点を一般の人ももてるようにし,自らの問題解決過程を客観的に把握しコントロールする力を付けさせることにあった.

  • Identifying problems
  • Defining problems
  • Exploring alternative approaches
  • Acting on a plan
  • Looking at the effects and learn

教室

「教室」という言葉は,単なる物理的空間以上の意味を込めて用いられる.1つには,教科内容を学ぶ知的な場である.2つには,複数の人間が社会的関係を形成し維持する場である.3つには,制度的な場である.

学力としてのリテラシー

「3R’s 読み書き算術」と言われるように,学校は子供たちにリテラシーを教育する機能を担っている.ユネスコの学習権利宣言によれば「学習権とは,読み書きの権利であり,問い続け,深く考える権利であり,想像し,創造する権利であり,自分自身の世界を読み取り,歴史をつづる権利であり,あらゆる教育の手立てを得る権利であり,個人的・集団的力量を発達させる権利である」と述べられている.そして「リテラシーとは読み書き能力だけではなく,大人になって経済生活に十全に参加するための職業的,技術的な知識を含む概念」と定義されている.OECDのPISAでは,数学的リテラシーという言葉を「数学が世界で果たす役割を見つけ,理解し,現在および将来の個人の生活,職業生活,友人や家族や親族との社会生活,建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において,確実な数学的根拠に基づき判断を行い,数学に携わる能力」と定義している.

思考を促す教室コミュニケーション

子供の思考を促すという視点から教室談話を見ると,いくつかの段階に分けることができる.第一は,教師が発問し,一人の生徒が答える,その回答の正否に焦点があてられて,教師が説明や質問をし,授業を進めるというT-C連鎖によって形成される談話である.第二は,指名した生徒の答えの背景にある思考や解き方を教師が吟味して話すようなT-C談話である.第三は,生徒たちが発言を通して,できるだけ多様な考え方を相互に語り合い,教師はそれらを整理し,生徒が吟味できるよう組織化していく談話である.教師の支援には,子供たちの関係をつなぎ参加を促す「社会的な足場かけ」と,特定の教科内容,教材理解へとつなぐ「分析的な足場かけ」がある.

協働学習の機能と過程

「3人よれば文殊の智恵」という言葉があるように,複数の人で考えることの重要性は言われてきている.また競い合うより助け合うことが公教育としての学校教育では大事にされている.

複数の人間が相互作用を通して学び合うことを「協働学習」という.協働は,作業の均一な配分とか成員の均質性を前提とするのではなく,成員間の異質性,活動の多様性を前提とし,異質な他社との相互作用によって成立する活動のありようを指すのである.

協働学習の利点を心理的過程に即して考えるならば,第一には,説明や質問を行うことで自分の不明確な点が明らかになり,より深く理解できるようになる理解深化という点である.第二には,集団全体としてより豊かな知識ベースを持つことができるので,限られた時間内で思考が節約でき,アクセス可能,利用可能な知識が増える点である.第三には,相手の反応などの社会的手がかりによって,自己の認知過程や思考のモニタリングができる点である.そして第四には,やりとりをすることで参加への動機が高められ,同じ意見や活動を共有することによって,グループ意識が高まることなどがあげられる.

人間は,経験をもとに,経験を重ねながら,どのような状況でも用いることができる抽象的で一般化された知識であるスキーマを形成していく.多様な他者との相互作用を前提とした協働学習においては,複数の人間のスキーマに接することで,個人のスキーマが量的に増加するというだけではなく,経験の多様性に基づいて質的にも多様なスキーマの形成が期待できる.

授業における学習評価の目的

人間の評価活動には「価値判断としての評価」と「問題解決としての評価」の2つがあり,教師は「問題解決しての評価」を日常的に行っている.

学習評価をその実施時期や機能という点から分類すると,「診断的評価」「形成的評価」「総括的評価」の3つに分けることができる.これら3つの評価のうち,教育実践において重要だとされているのは,形成的評価である.OECDでは,世界各国における実践事例をもとに,形成的評価の6つの要素を提起している.

  1. 相互作用を促進する教室文化の確立とアセスメントツールの使用
  2. 学習ゴールの確立とそれらのゴールに向けたここの生徒の学力進歩の追跡
  3. 多様な生徒のニーズを満たす様々な指導方法の活用
  4. 生徒の理解を把握・予想することへの様々なアプローチの使用
  5. 生徒の学力達成状況へのフィードバックと確認されたニーズに応じて授業を合わせること
  6. 学習プロセスへの生徒の積極的な関与

これらの6項目からは,形成的評価のあり方として,学習者の多様な学びの姿をとらえ,個に応じた対応を進めていくこと,学習者も形成的評価のプロセスに参加すること,教師と学習者が評価プロセスを共有することを通して,反省的な学習の文化,評価の文化を教室に構築することが,示唆される.

形成的評価に基づく教育実践の改善に向けては,フィードバック機能がより重視される.指導者へのフィードバックでは,評価情報を,以降の授業やカリキュラム改善に生かすことが目指される.学習者へのフィードバックは,評価情報を学習者が自らの学習の改善に役立てることができるように示すことが目指される.学習者へのフィードバックは,教師が,学習者にとっての「思考の支援者」となることや「メタ認知的役割」を果たすことであるともいわれている.

授業を単位として行われる形成的評価は,授業中に,学習者が生成する発話や教室での相互作用を手がかりに,学習者の学習の状況や理解度を把握する.授業の過程は,いわば形成的評価の繰り返しである.

到達度評価

形成的評価をマクロサイクルで考える際には,指導と評価の一体化に加え,「目標と指導と評価の一体化」が目指されるべきである.到達度評価とは,評価者からは独立に,客観的な目標や到達基準をたて,学習者が「何」を「どの程度」達成したかを把握する評価方法である.

新しい学力観や到達度評価の導入によって,「評価規準(「のりじゅん」と読むことで,基準「もとじゅん」と区別する)」に基づいて評価を行うことが求められるようになっている.評価規準とは,教育の目標として,目指すべき学習の状況といった価値を含んだ内容である.評価規準は学校,学級ごとに設定するものである.単元や教科のねらいを踏まえながら,学習の到達度を適切に把握できることはもちろんのこと,指導と対応していること,学習者や学校の実態に則すること,教師の過重な負担にならないこと,学習者や保護者にも分かりやすいこと,に留意する必要がある.

「評価基準(もとじゅん)」は,評価規準で示された目標を,学習者がどの程度達成したかを量的な尺度によって把握し判断する目安となるものである.実際には,どのような状態であれば達成したかを具体的に判断するための分割点が設定される.

協働的活動における評価

協働的な学習活動の特徴を学習評価という点からみると,主として次のような特徴がある.

  1. 他者への説明の必要が生じることから,言語的やりとりのなかに学習者より高次な認知過程が顕在化する
  2. メンバー間で認知的葛藤が生じ,その調整や創造的課題解決の過程が示される
  3. 「読み書き」だけではなく口頭での説明や図表の提示など多様な様式によって認知過程を把握することが可能となる
  4. ソーシャルスキルや市民的資質,価値や態度,仕事への熱心さがより明らかになる
  5. 教師評価だけではなく,相互評価や自己評価の機会も増加し,その手だても,客観的テストに加え論述テストや観察,インタビュー,ソーシャルスキルの演じ

などにわたる.

パフォーマンス評価とポートフォリオ評価

「真正の評価」の代表的な評価にパフォーマンス評価とポートフォリオ評価がある.

パフォーマンスとは「自分の考え方や感じ方といった内面の精神状況を身振りや動作や絵画や言語などの媒体を通じて外面に表出すること,またはそのように表出されたもの」である.パフォーマンス評価は「ある特定の文脈のもとで,様々な知識や技能などを用いて行われる人のふるまいや作品を,直接的に評価する方法」でいえる.

ポートフォリオとは,学習の過程において学習者が制作した作品や集めた写真や記事,書きつづったメモや作文などあらゆる成果物の集積である.ポートフォリオを用いた評価とは,これらの中から学習者の達成や発達を示すものを選択し,その価値を仲間や教師とともに認め合うとともにその学習者への次なる働きかけやカリキュラムの改善に役立てるのである.

カリキュラム

「カリキュラム」という語にはいくつかの意味がある.とりわけ我が国においては.次の2つの意味で用いられることが多かった.1つには「公的な枠組み」である.2つには「教育計画」である.現実には,「公的枠組み」としての意味合いが強いため,教師主体の「教育計画」という意味は空洞化している.

「カリキュラム」という語は「学習経験の総体」と再定義されつつある.従来のカリキュラム観は.教師が教えた事柄が同一であることを前提としていた.しかし,現実の子どもの学習経験は,教師が予測し教えている事柄以上のものである.「学習経験の総体」とのカリキュラム観は子どもの学習経験の価値をより広い社会的文化的視野からとらえ直すことの必要性,そのことの文化的価値をあらためて問うことの必要性を提起する.

カリキュラムの水準

国家が編成するナショナルカリキュラムは,日本の場合「学習指導要領」である.地域カリキュラムは,地域の教育委員会などが主体となって作成される.当該学校の各学年各教科で策定された計画カリキュラムとしての学校カリキュラムに沿って授業を行うが,計画と実施が一致するとは限らず実施カリキュラムは計画カリキュラムを書き換えることとなりうる.教師が実施したカリキュラムを子どもがその通りに経験しているとは限らず子どもの側からの経験カリキュラムに沿って,指導や学習の成果を評価する必要がある.

授業のデザイン

教師の「ねがい」は,授業を通して子どもにどのような力をつけさせたいか,どのような子ども育ってほしいかといういわば,学習課題や教材に対する教師の教育的価値観である.授業の「目標」は,その授業で達成したい子どもの姿,学習の成果である.「学習者の実態」は,授業に参加する子どもの授業参加のあり方,学習経験,生活経験,発達段階,関係性などである.「教材の研究」は,授業における教師の仕事の中核の1つである.「教授方略」は,予想されうる様々な状況に対応するための基本方針を立てることである.「学習環境・条件」は,学習空間の構成の,教育メディアも含めた学習を支援するための人的物的資源である.

従来,授業に関する教師の仕事は,授業の計画を立て,授業を行い,そして評価するという作業に分けられるという見方が広く採られてきた.藤岡完治が述べているように,授業デザインという考え方は,授業が複雑性や曖昧性をその本質として有していることを前提としている.授業を行うという教師の仕事は,教師が予め立てた計画通りに子どもを操作し動かすことではない.それは授業前でも,授業中でも,授業後でも,不断に続けられる教師の専門職たる営みである.(注※この科目を受講し始めたのは今学期であり,あのエントリを書いたのは3月である.)

授業デザインと教師の専門性

授業の過程における教師の仕事を「学習環境デザイン」の4つの視点と関わらせながら「テーマを設定する」「コミュニケーションを組織する」「認識を共有する」という3点から検討する.

テーマを設定するために,「ねがい」と「目標」を明確化すること,子どもの事実から考えること,子どもや学校を取り巻く環境をふまえること,である.

教師が子どもと教材との橋渡しとなり,「学習者中心」の学習環境を構成することとともに「知識中心」の学習環境を構成することの必要性が生じる.しかし,このような学習環境の構成は事前に計画できるものではなく,教師には即興的対応が求められる.このように,教師や子ども一人ひとりが様々な認知的社会的な背景を持ち,様々なねがいや思いを教室に持ち込みその実現を果たそうとする.教室は様々な目標が網の目のように絡まり合うジレンマ状況であり,教師はそこでやりくりをしていくジレンママネージャである.

授業へのアプローチの多様性

授業の研究は,大きく2つに分けることができる.1つには,子どもの学習過程,学習集団としての教室における授業参加の規範,参加者間の関係性,コミュニケーションのありよう,などを具体的な教科学習の文脈において把握しようとするものである.2つには,授業や教材の開発と実践,分析と評価,改善と新たな実践といったデザインを具体的で固有名の学習者や教師を対象として実際に行うというものである.

この2つの研究の志向性を分けるものは,研究者自身がどのように対象に対する位置取りをするのかということである.心理学や教育学,社会学の理論を基盤として普遍理論の生成確立を志向するのか,対象となる授業の文脈に基づき,特定の範囲の文脈を共有する中でその特徴を説明する局所理論の生成を志向するのか,個別の実践や実践者の中に暗黙に働いている実践に密着した理論を見いだしていくのか,という違いである.

学習研究としての授業研究

学習を「経験の結果として生じる比較的永続的な行動の変化」とする行動主義の学習論の元では,条件付けや反復,結果の即時フィードバックが有効であるとみなされた.人間の知的行動を,情報処理モデルで説明し,学習を「既有知識を使いながら,新たな情報を取り入れ,頭の中に新たな知識の構造を作り出し,変化させていくこと」と捉える認知主義の学習論の元では,記憶,知識構築,試行,問題解決などの概念で人間の学習を説明した.

他者との相互作用における認知過程に焦点を当てた社会文化的アプローチでは,学習は「大人-子ども,子ども間の協同による,文化的道具に媒介された活動から生まれる」とされ,授業が行われている文脈や社会的,文化的,制度的,歴史的状況との関連で学習者や教師の行為をとらえることがめざされた.

デザイン実験

少数の教室での学習事例を丁寧に記述し,検討して,先行研究の知見から改善のデザインや教授プランを考え,実行し,評価を通してより一般化可能なデザイン原理を導き出す研究をデザイン実験という.学校を基盤としたカリキュラム開発を行い研究チームと学校とが連携したプロジェクトとして行われることが多い.手続きは次の通りである.

  1. 「どのような理解や技能を学習者に獲得して欲しいか」を定義する,ポリシーの確立の段階である.
  2. 授業設計の前に,学習者が学ぶべきことを想定して,教授者が一貫して持つべき教育方針のようなものを明確に記述する.
  3. 次に検討する「要素技術」とは,学習場面で実際に使用する教授法,教材,活動などの様々な手段のことである.
  4. 学習活動の記録をデータとして収集し,「計画段階で選択した要素技術が適切に機能したか」「それらの支援に基づいて学習者はどこまで理解のレベルを向上させたか」あるいは「期待される認知活動に従事したか」を明らかにする.
  5. 形成的評価や総括的評価を活用して,「さらによくるすところ」「うまく機能しなかったところ」を明らかにして,修正してさらに実践を続けるのである.

教師の知識の特徴

授業を行うには,まず教科や教材に対する知識が必要である.しかしそれだけでは授業はできない.その教材をどのように教えたら学習者にとってわかりやすいか,学習指導の方法に関する知識や,学習者のわかり方についての知識が必要となる.このような教師の知識をShulmanは「授業を想定した教材内容の知識」とよんでいる.

Grossmanは,授業を想定した教材内容の知識を構成するものとして次の3つをあげている.1つには「生徒の理解に関する知識」である.2つには「カリキュラムについての知識」である.3つには「授業方法に関する知識」である.教師は,これらの知識を総動員させて授業をデザインしていく.重要なのは,これらの知識が別々に存在するのではなく,教科や教材を教える目的についての概念に基づいた統合された複合的な知識になっているという点である.

教師の知識はまた「行為のなかの知」であるといわれる.教師の仕事は,不確かな個別事例の文脈に依存し,実践のなかに理を見出しながら状況と対話する「反省的実践家」である.反省的実践家が状況と対話する「行為のなかの省察」を支える知識が「行為のなかの知」であるというのである.

熟達者の特徴

ある特定の領域の専門知識や技能に秀でているものを熟達者という.熟達者の特徴は,第1に,優れた記憶能力があること,第2に,問題を解決する方略の選択や必要な情報を探し出す能力に長けていること,第3に,長い時間を掛けて積み上げられた結果として卓越した能力を示すこと,である.また,様々な職業における熟達研究の結果,様々な領域における熟達者に共通する特徴として,次の3点が挙げられるという.

  1. 遂行が早く正確である.
  2. 多くの事柄を,容易にかつ正確に記憶できる.
  3. ある分野の熟達者はその分野において卓越しているのであり,未経験の分野では同等の能力を発揮できない.

適応的熟達者としての教師

熟達のあり方は,領域により,あるいは人により異なるタイプをとることが明らかになっている.すなわち,1つには,問題解の手続きが定型化しており,それを1度習得すれば後はそれを確実に速く行うことが求められる仕事,あるいはそのような熟達者である.2つには,状況の変化に応じて問題解決の手続きを柔軟に変えていくことが求められる仕事,あるいはそのような熟達者である.前者は「定型的熟達者」,後者は「適応的熟達者」とよばれる.

Hatanoらは,適応的熟達に向けた動機づけ的基板として次の4点を指摘している.

  1. 絶えず新奇な問題に遭遇すること
  2. 対話的相互作用に従事すること
  3. 緊急な外的必要性から解放されていること
  4. 理解を重視する集団に所属していること

よく考えられた練習とメンタリング

よく考えられた練習であるためには,そこでの活動は「作業」や「遊び」と違って,以下のような要件を備えている必要がある.

  1. 指導者は,高度なレベルの行為とそれに結びつく練習を得るための最も良い方法についての知識を蓄積していくこと
  2. 個々人が,自分のおかれた状況についての重要なポイントに注目したり,自分の行為の結果についての知識を自分で得たり指導者からフィードバックしてもらったりして徐々に改善できるような経験を繰返しできること
  3. 改善すべき行為が何であるのかが明確で活動が構造化されていること
  4. 弱点を補強するための特定の課題が課され,行為は注意深くモニターされていること
  5. 個々人は,その実践によって目的とする行為が改善されることを自覚してその実践に取り組めること
  6. すぐに一時的な成果が得られるわけではなく,逆に指導者やコーチといった環境を整えることでコストがかかることを理解し,長期にわたる実践の結果を期待せねばならないこと

メンタリングは,社会活動としての非行少年の更正支援を指す場合もあれば,専門的職業人のキャリア発達支援などを指す場合もある.後者の場合は,上司や先輩,同僚などがメンターとなることが多い.メンタリングの活動としては,知識や技能,集団での振る舞い方などを直接的に説明する教育的活動,信頼関係を築いたりエンパワーメントする個人的支援,組織的活動の状況における支援,活動範囲の拡大やより中心的な存在になるための後援などが含まれる.

未来の学校教育へのシナリオ

授業が今後どのように変わっていくのかは,長期的視点に立ってみると,学校にどのような機能が期待され,国際的に,そして各国がいかなる教育政策を目指すかによって変わってくる.OECDでは,学校教育が将来どのように進展するかについて,6つのシナリオを示している.

  1. 強固な官僚的学校システム
  2. 市場モデルの拡大
  3. 社会の中核的センターとしての学校
  4. 学習組織の中心としての学校
  5. 学習者ネットワークとネットワーク社会
  6. 教員大脱出-溶解シナリオ

シナリオ4が示すように,学校が地域の学びのコミュニティの中核となって本来的な学校機能を果たすためには,「公的な信頼」が鍵となる.歴史的にみると,時代によって,誰が子どもの教育の責任を負うのか,その教育の目的は何であるのか,そしていかに教えられ評価され,何を学習に期待するのかという次元での変化がある.師弟制による学習の時代,学校から大学へという学習を考える時代,そして生涯にわたる学習を考える時代へと順に変わってきている.

発達心理学概論(’11)

今学期受講している5科目のうち,「発達心理学概論(’11)」を聴講し終えたので,簡単なまとめをしておく.緑科目は脇道トークが面白い.

発達の定義

形態・機能の増大および生殖能力の成熟への一方向の変化は「発達」と呼ばれ,生涯におけるそれ以降の変化を「老化」と呼んでいる.現代の発達心理学において,発達概念の最も包括的定義はレルナとフォードによるものといわれる.個人の発達とは「個人が持つ現在の特徴とその人がおかれている状況・文脈との相互交渉の流れを通して,その人が1つの統一体としての体制化と構造・機能的統一性が保たれていながら,個人の構造的および機能的特徴がより精緻になり,これらの特徴の幅が広がりになり,一連の比較的持久する変化を生じさせる増大と変換する諸過程」である.

ピアジェの認知発達理論

発達心理学の理論の中で最も知られているものの1つは,スイスの心理学者ピアジェの認知発達の理論と思われる.ピアジェによれば,子どもの認知的発達は子どもが環境との相互交渉を通して,生得的に持つ反射やシェマが同化と調節作用によって,シェマがさらに精緻,豊富になり個体が有能になる過程と捉えた.

ヒトの行動の特徴

われわれに最も近縁の種であるチンパンジーと比較して,われわれは他者の考えや意図を察することに長けている.では,なぜそのような行動特徴を持つのだろうか.この問いに対して2種類の答え方が可能である.1つは,われわれの脳や身体の構造にその理由を求めるものである.もう1つは,われわれの行動特徴やそれを可能にする脳や身体の構造が,ヒトという種がかつて進出した環境での生活に適応して進化したからというものである.

脳の成熟と経験の相互作用

脳を含めた身体の成熟のためには,子どもは環境から栄養分を摂取しなければならない.ある環境の中で,実際にそれぞれの器官が働くことで,それぞれの器官が成長,成熟するという側面も無視できない.

乳児の微笑は,新生児微笑と社会的微笑が区別されている.この2種類の微笑の違いは,それを引き起こす原因の違いにある.新生児微笑は,主に眠っているときによくみられる.新生児微笑は,外からの刺激で怒るのではなく,乳児の内的状態が微笑を引き起こすと考えられている.対して,社会的微笑は,乳児が覚醒しているとき,他者からの働き掛けに対する反応として起こる.新生児期に観察される微笑は,ほとんどが新生児微笑であり,社会的微笑が観察されるのは生後6~8週目頃になってからである.

行動の個人差と遺伝

外見や行動,能力には個人差がある.発達の早さにも個人差がある.環境論者は,指紋とか身長,顔立ちなどが遺伝子によって決まっていることは認めながら,われわれの知能や性格のような心理学的性質については,生育環境の違いとか文化の影響など,環境要因の重要性を主張する.対して遺伝論者は,知能や性格のような心理的性質についても,遺伝子が強い決定力を持つと主張する.

実際の心理的性質の個人差は,遺伝の効果の他に,きょうだいや双子に共通な経験をする環境(共有環境)の効果や双子でもお互いを似なくさせる,それぞれの子どもに特有な経験をする環境(非共有環境)の効果の和として理解される.性格に関しては,共有環境が思ったよりずっと小さいことが多い.外向性については,遺伝率と非共有環境の効果がそれぞれおよそ50%であり,共有環境の効果がほとんどない.逆に,例えば,宗教性では,共有環境の効果が大きい.

脳内のモノアミンオキシターゼという酵素の濃度を決めるMAOA遺伝子と反社会的問題行動の関係が明らかになっている.この酵素の濃度が低い子どもが,虐待とか育児放棄のようなストレスに満ちた経験をした場合に暴力的で反社会的問題行動を起こすことが分かった.仮に,この酵素の濃度が低い子どもでも,安定した環境で育った場合には,問題行動を取ることは非常に少ない.

強制注視

生後3,4ヶ月までの乳児には,いったん注視したらしばらく注視の対象から視線を離せない,いわゆる「強制注視」の傾向があるといわれている.乳児と養育者が同時に同じ対象に視線を向けることは共同注視と呼ばれている.乳児が養育者の視線の方向を捉えて養育者と共同注視できるようになるのは,1歳前後とされている.

ピアジェの発達段階理論

ピアジェは,発達の主体の論理操作構造が様々な側面の発達を規定すると考え,その構造の発達的変化の観点から認知の発達やパーソナリティの発達を考えようとした.論理操作の構造は,誕生以降,質的に異なる以下の4つの発達段階を辿る.

  1. 感覚・運動期(0-2歳)
  2. 前操作期(2-7歳)
  3. 具体的操作期(7-11歳)
  4. 形式的操作期(11歳以降)

心的表象が形成されることで,自分が以前に見た子どもの動作を真似たり,器に砂を入れてご飯を食べる振りをしたりすることができるようになる.具体的操作期になると,思考に論理性が伴うようになる.例えば,コップに入っている水を細長い容器に移し替えても量は変わらないことがわかるようになる.前操作期では,知覚的に目立つ属性によって量を判断していたのが,「何も加えたり減らしていない」「元に戻せば同じ」「高くなった分,細くなっている」のように,論理で判断ができるようになる.

ルール評価アプローチ

子どもの知識状態をより正確に測定できるとのことで提案されたのが,ルール評価アプローチである.ルール評価アプローチでは,まず子どもの発達とともに高次化するルールを想定し,反応のパターンから子どものルールを同定できる数種類の課題タイプを考案する.そして,各タイプについて数問の小問を実施し,それらに対する1人ひとりの反応パターンを分析することで,1人ひとりのルールを同定する.

マイクロジェネスティックアプローチ

漸進的な発達観のもとに,子どもの変化の最初と終わりの状態だけではなく,変化のプロセスを捉えることを目的として考案されたのが,マイクロジェネティックアプローチである.マイクロジェネティックアプローチは,子どもの中に生起しつつある変化を詳細に分析する方法である.その特質は以下の通りである.

  1. 変化の始まりから変化後の安定状態に至るまでの一定期間の観察を行うこと,
  2. 変化の速さが速いほど観察を高密度に行うこと,
  3. 観察では一試行毎に綿密に分析を行うこと.

ことばの発達

言語は,最初は他者との間でやり取りを行うコミュニケーションの手段(外言)であるが,発達とともに,それは自身の行為を制御・調整するための手段(内言)となる.

岡本は,具体的な事柄について,状況の文脈に頼りながら,一対一の直接会話の形で展開される一次的ことばと,現実場面を離れたところで,ことばだけの文脈に頼って,不特定多数の聞き手に対して伝達される二次的ことばとを区別した.一次的ことばは話し言葉であるのに対して,二次的ことばには話し言葉と書き言葉が含まれる.

概念の発達

ヴィゴツキーは,具体的な日常経験を通じて形成される生活概念と,体系的な科学的知識の教授によって形成される科学的概念とを区別している.生活的概念は,子どもの経験の中で体系性を欠いたまま発達するのに対して,科学的概念は,体系化されたことばの体系であり,共通性の関係によって一般化され階層化された構造を持つ.

学校教育における体系的な教授・学習を通じてではなく,日常経験を通じて結成されてきた概念は素朴概念と呼ばれている.1990年頃から,素朴概念を包括する試行の枠組みとして,各領域における素朴理論が提唱されるようになった.素朴理論の特質としては,領域内の知識の首尾一貫性,存在論的区別,因果的説明があげられている.

直接観察したり経験したりできない事象については,科学的概念に照らしてみると誤った素朴概念が形成されることも多い.特に,素朴物理学の領域では,力や電流といった直接観察できない事象について,日常経験を通じて強固な素朴概念が形成され,物理学を高校までに学習した大学生においてもそれが克服されていないことが指摘されてきている.

教育による発達の促進可能性

ブルーナーは「どの教科でも,知的性格をそのままに保って,発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」という「教育課程というものを考える上で,大胆で,しかも本質的な仮説」を提起した.子どもの発達段階を考慮した教授介入によって理解が促進されるという点は重要な指摘であるが,どのような教科内容も「知的性格をそのままに保って,発達のどの段階のどの子どもにも」教えることが可能であるかどうかについては検討の余地があると考えられている.

学力や学習意欲の問題

小学生を対象とした算数・理科の学力に関する国際比較調査(TIMSS)では,日本の4年生は国際的に上位にある.しかしながら,学校で直接学習する計算や定型的な文章題のような手続き的知識やスキルに関する水準は高い一方で,概念的理解や因果的説明に関連する問題の正答率は国際平均レベルかそれ以下で,課題を残している.

このような日本の子どもの概念的理解や因果的説明の弱さは,1995年以降に国際教育到達度評価学会によって実施されたTIMSS調査や,OECDによって実施されたPISA調査など,小学生から高校生を対象とした国際比較調査においても,また2007年以降に国内で実施されている全国学力・学習状況調査においても一貫してみられる傾向である.

アタッチメントの発達

アタッチメントとは,養育者に対する子どもの接近傾向を意味する.子どもは,何らかの脅威を感じたとき,養育者に接近したり,接触を求めたりする傾向を強く持っている.そして,子どもが養育者に接近する行動や接触行動,あるいは接触を維持しようとする行動をアタッチメント行動と呼ぶ.乳児はいつでもアタッチメント対象に接近・接触できる態勢を維持しながら,環境探索行動をしているのである.このようなアタッチメント行動と環境探索を交互に繰り返している様子から,子どもがアタッチメント対象を環境探索のための安全基地にしているのだと考えることができる.

シュルーフらは,安全なアタッチメントを発達させた子どもたちが,安全でないアタッチメントを発達させた子どもたちより,就学前期や学童期,青年期において,集団生活や仲間との関係で有能であることを報告している.安全なアタッチメントを発達させた子どもたちは,他者との関係に前向きで,より有能な葛藤解決スキルを発達させており,ポジティブな自己概念を持っていることなどが示されている.

社会的認知

社会的認知とは,他者や周囲の出来事を観察して,その意味を解読・理解しようとする働きである.社会的規則は,個人がその社会の適切なメンバーになるためには知っておかなければならないものである.そうした社会的規則は,親や教師から禁止と要請という2つのチャンネルを通して示されることが多い.

社会的情報処理モデル

子どもたちが示す社会的な行動は,対人関係場面で直面する様々な問題について,その子どもなりの解決の結果として表われた反応である.ダッジらは,こうした社会的場面における問題解決についての情報処理モデルを提出した.そこには以下の5つのステップがある.

  1. 符号化過程
  2. 表象過程
  3. 反応探索過程
  4. 反応決定過程
  5. 実行過程

あるステップで上手く反応できなかったり,偏ったやり方で反応したりすると,社会的行動が上手く発揮できないとする考え方である.

社会的規則

チュリエルは「私たちが守らなければならない社会的規則の中には,他者の権利や福祉に関する道徳性と社会的相互作用を円滑にし,社会秩序を維持する社会的慣習の2つが存在し,それらを区別しなければならない」と述べた.道徳と慣習は,一般化可読性,規則随伴性,文脈性,規則可変性,権威依存性の5つの観点で区別され,それぞれ異なる発達過程をとる.

向社会性

アイゼンバーグは,思いやりとか愛他性といったポジティブな道徳性の研究が必要であると主張し,「他人あるいは他の人々の集団を助けようとしたり,こうした人々のためになることをしようとしたりする自発的な行動」のことを向社会的行動と呼んでいる.向社会的行動には,次の4つの特徴がある.

  1. その行動が他人または他の人々についての援助行動であること.
  2. 相手から外的な報酬を得ることを目的としないこと.
  3. そうした行動には,何らかの損失を伴うこと.
  4. 向社会的行動は,自発的になされること.

アイゼンバーグらは,向社会的行動の発見的モデルを提起している.このモデルは大きく3つのステップからなっている.

  1. 他者の要求への注目
  2. 動機づけと助力の意図
  3. 意図と行動のリンク

アイゼンバーグらは,向社会的行動を多くする子どもたちの特徴を次のように指摘している.

  1. 高次の視点取得能力と道徳的推論を示す傾向にある.
  2. 困窮や苦痛の状態にある他の人に情緒的に反応しやすい傾向がある.
  3. 社交的,主張的,社会的に有能である.
  4. 知的な子どもの方がいくぶん向社会的行動をする傾向がある.
  5. 男子と女子で異なったタイプの向社会的行動を好み,女子は他者を身体的・心理的に慰めることを,男子は道具的な援助を与えることを得意としている.

さらに,向社会的行動を示す子どもの親の特徴として,次のことを指摘している.

  1. 親は誘導的しつけを用いる傾向がある.
  2. 子どもが向社会的行動にたずさわる機会を提供する.
  3. 向社会的行動に価値をおく.
  4. 向社会的行動のモデルになる.
  5. 他者の視点を取る.
  6. 共感性や同情心を奨励する.

共感性

向社会性に関連する要因として,最も多く取り上げられるのが共感性である.フェッシュバックは共感性を「他人の情動的反応を知覚する際に,その他人と共有する情動的反応」と定義した.アイゼンバーグは共感性と同情を次のように区別している.共感性とは,相手の情動状態から生じ,その状態に伴ってこちら側に生じるような情動状態である.対して,同情とは相手の情動の状態についての情動反応であって,それが相手についてのあわれみや悲しみ,配慮の感情を作り上げる.同情は相手と同じ情動を感じることを意味しているわけではなく,相手あるいは相手の状態に対して感じる感情のことである.ホフマンは,共感性を「他人の感情との正確なマッチングではなく,自分自身のおかれた状況よりも他人のおかれた状況に適した感情的反応」と定期議した.

罪悪感

一般的には,法律上の違反,犯罪ばかりではなく,倫理的,道徳的,宗教的な規範に背いて過失を犯したり,過失を犯そうとしたときに自分を責める感情が罪悪感である.タンネィによれば,罪悪感は,後悔,良心の呵責,「悪いことをしてしまった」ことへの失望を意味している.他者を傷付けたときの適切な反応であり,行いを改めたり,謝ったり,あるいは罰を受けたりといった償いを通して解かれるのが,健全な罪悪感である.

ホフマンは,共感に基づいた罪悪感の理論を提案している.それは,自分自身に対する軽蔑といった苦痛を伴う感情と定義され,犠牲者に謝罪をしたり,償いをしたり,犠牲者とは異なる別の人々を援助したりといった向社会的行動を同期づけることが多いとしている.

パーソナリティ

それぞれの個人には,その人独自の行動様式があって,かなり一貫した持続的な行動傾向が認められる.そうした個人の行動のあり方を規定しているのが,パーソナリティである.パーソナリティとは,「その人らしさ」「人柄」のような個人差を表す言葉である.パーソナリティの語源は,ラテン語の「ペルソナ」に由来し,演劇などに用いられる仮面を意味していた.一方,キャラクターという言葉は,元々土地の境界に目印の石を置き,その石に所有者の名前などを刻み込むものであったという.

語源的には,パーソナリティは可変的で力動的,キャラクターは固定的で静態的である.パーソナリティは社会的役割などを含み,環境に対する適応機能の全体的特徴を問題にしている.一方,キャラクターは,比較的変わりにくい個人的特徴を問題にしている.

知的能力

パーソナリティの知的側面が知能である.キャッテルらは,流動性知能と結晶性知能の2つに分けた.流動性知能とは,記憶・推理・数計算・図形処理などの情報処理能力からなり,青年期の早い時期に能力のピークが訪れる.結晶性知能とは,言語理解や経験的評価などが含まれ,この能力のピークはずっと遅くである.

自我同一性

自我同一性は「自分が自分であること,自分らしさ」あるいは「私は私であって,私以外の他者とは異なる存在であること」が中核の概念である.エリクソンによれば,こうしたアイデンティティの感覚とは,「自分は他の誰とも違う私自身であり,私は1人しかいない」という斉一性の感覚と「今までの私もずっと私であり,今の私も,そしてこれからの私もずっと私であり続ける」という連続性の感覚からなっている.

アイデンティティの確立を最も求められるの青年期である.エリクソンは,青年期における自我と社会との相互関係によってもたらされる心理・社会的危機を通して,自覚的に揺るぎない自分を確立していけるのか,それとも自らを見失い混乱していくのか,が重要な問題だとしている.

キャラクター

キャラクターはギリシャ語の語源から「彫り込む」ことを意味しており,「消し去ることのできない一貫性と予測可能性の指標」である.ヘイらはキャラクターを「社会生活のジレンマや責任に対する個人の全般的なアプローチであり,他者の苦悩に対する情動的反応,向社会的スキルの獲得,社会的慣習の知識,個人的価値の構築によって支えられた社会的世界への応答性である」と定義している.そして,生涯にわたって発達するキャラクターの次元として,7つあげている.

  1. 他者の情動や要求に対する感受性
  2. 共有の資源の使用について協力的か競争的かといった指向性
  3. 乳幼児,高齢者,病人や助けを必要としている人に対する世話の用意
  4. 積極的な援助あるいは受身的な従順や服従を通して,他者の目標に合致するよう援助すること
  5. 他者との葛藤をうまく解決するような社会的問題解決スキル
  6. 真実を話すことや信頼性の規準の発達
  7. 社会的慣習と道徳的規範への気づきと忠実さ

バウムリンドは,キャラクターとは「自分の行為を計画し,その計画を実行し,様々な選択肢を検討して選び,他者のためにはある行為を控え,快適な習慣や態度,行動のルールを採用することによって自分自身の生活を組み立てる」ものであると述べている.

リコーナは,「キャラクターとは,徳のことである.善きキャラクターとは,よりよく徳を備えたキャラクターのことである」と述べた.そして「キャラクター教育とは,徳を意図的に教えることである」と述べ,従来の道徳教育への復帰尾を標榜した.さらに,リコーナ,シャップスとルイスは,すでに実施されているプログラムや教材,カリキュラムを評価する基準となる「キャラクター教育の11の原理」を提示している.

  1. 良いキャラクターの基礎としての中核的な倫理的価値を奨励する
  2. キャラクターは,考えること,感じること,行動することを含むものとして広く定義する
  3. キャラクターの発達に対して,包括的,意図的,前進的ならびに効果的なアプローチを用いる
  4. 思いやりのある学校共同体をつくる
  5. 生徒に道徳的な行為をする機会を提供する
  6. 学習する全てのものを尊重し,自分自身のキャラクターを伸ばし,成功を援助するような意義ある意欲的学習カリキュラムを含める
  7. 生徒自身のやる気を育むよう努力する
  8. 学校の教職員は,学習と道徳の共同体の一員となり,全ての教職員がキャラクター教育の責任を分かち合い,生徒の教育の指針となる同一の中核的価値に従って忠実な努力をする
  9. キャラクター教育をはじめるにあたって,道徳的なリーダーシップを共有し,長期的な支援を培う
  10. 親やコミュニティのメンバーを,キャラクター形成のパートナーとして迎える努力をする
  11. キャラクター教育者としての学校のキャラクターと学校の教職員の機能を評価し,生徒がどの程度良いキャラクターを体現しているかを評価する

英知

エリクソンは,老年期に発達する心の働きを英知と呼んだ.バルテスらは,英知を操作的に定義し,測定できるようにした.彼らの定義では,「英知」とは,複雑さや不確かさを含むような,人が生きていく上で出会う問題に対して,優れた洞察や判断を可能にしてくれる人生の基本的な実践で用いられる熟達した知識である.英知は,事実としての知識,手続き的知識,状況主義,相対主義,不確実性の受容の5つからなる.

ハイリスクの子どもたち

ワーナーらが行ったカウアイ島での調査研究では,母親の教育水準の低さ,生まれたとき慢性的な貧困であったこと,生まれてから2歳までの間不安定で葛藤的な家庭で育つこと,周産期にストレスを経験していること,生まれたときに器質的な問題を持っていること,2歳の発達に遅れが見られることなどがリスクになる.

しかし,ハイリスクの子どもたちの全てが学習や行動の問題を発達させたわけではなかった.ハイリスクの子どもたちの3分の1は,18歳までに深刻な学習や行動の問題を示さなかったのである.ワーナーらは,このような子どもたちを,傷つきにくい,レジリエントな子どもと呼んだ.ワーナーとスミスは,レジリエントな子どもたちと傷ついてしまった子どもたちの比較から,レジリエントな子どもが持つ特徴や条件を見つけ出した.それらは保護要因と呼ばれるが,子ども自身の特徴であったり,環境の特徴であったりする.子ども自身の保護要因は,周りの大人たちから社会的刺激や支援を引き出しやすいような行動特徴や発達の順調さ,周りの大人を困らせるような癖や問題を持たないことなどである.環境にある保護要因は,親密で安定した関係を持つことのできる人の存在とかそのような人々から十分な注意が払われていることなどである.

軽度発達障害と発達支援

軽度発達障害の子どもたちは,これまで,幼稚園や保育園,学校などで,変な子ども,困った子ども,教室を混乱させるような子どもと見なされてきたかもしれない.また,多くの子どもたちから「特異」に見える彼らの行動特徴のせいで,いじめの対象になることも少なくなかった.最近,軽度発達障害の子どもたちを対象とした特別支援教育が行われるようになってきている.特別支援教育は,文部科学省によれば「障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取り組みを支援するという視点に立ち,幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し,その持てる力を高め,生活や学習上の困難を改善または克服するため,適切な指導および必要な支援を行うもの」と定義される.しかし,特別な配慮が必要な子どもたちは,障害をもつ子どもだけではない.「ふつう」と思われている子どもたちも,とても多様な認知や行動の特徴を持っている.発達的には,全ての子どもたちの個別のニーズにできるだけ応えられるような関わり方が大事だという発想への変換が必要だと考えられる.

矛盾と葛藤と批判と

もう皆さんはとっくに読み終えていると思いますが,内田樹先生の最終講義を未だに読み進めています.

どうにもこうにも,内田先生の教育に対する姿勢と私のそれは近いように思います.実際には,全然近くない(足下にも及ばないという意味で)ので,正確な表現をするならば,憧れているだと思います.内田先生の著作については,以前,下流志向についてエントリを書きました.今回は,最終講義の第5章「教育に等価交換はいらない」から,かいつまみつつ,思ったことをちょっと書こうかななどと思いました.いつものレビューのように書いていきたいのですが,共感した部分を引用しようとすると,全文引用になってしまうので,最終講義のレビューはできないかなって思ってます.ですので,今回は一節を抜き出して,ほんの少し書きます.

僕自身にしても,教育とは何か,学校とは何かという問いに対して,十代から様々な個人的解答を試みてきました.そして,それは全部間違っていた.だから,今僕がしゃべっているこの話にしても,構造的に間違っているんです.でも,それでいいんです.(中略)

もし,教師が「教育とは何か?」という問いに最終的な正解を自分は出したと思ったとしたら,その人は教師としてはたぶん機能しなくなってしまうでしょう.どうしていいかわからなくて,じたばたしているのが教師の常態だからです.(中略)「子どもをどう教育すればいいか,私には全部わかっている」という人がいたとしたら,その人は教師には不向きだと僕は思います.

最終講義 pp.227-228

私が学生時代にやっていたブログでは,「教育はこうあるべき」とか「こういう風に指導すべき」といった持論を展開していました.このブログにも「教育」のカテゴリがあり,約60エントリありますが,大半が放送大学の学びについてであって,教育論を論じたものはないと思います.何故そうなったのかというのは,まさにこの一節の通りです.

学生時代はTAをやっていたとはいえ,所詮は学生です.教える立場ではなく教えられる立場です.その中で,多くの授業を経験して,いいところ・わるいところを見て,「こうしよう」「あぁしよう」と思考を巡らしていました.それは「教えられる側」から「教える側」を考えていたのです.それはそれで,当時の自分としては正しかったんだと思います.その時に考え得る,できる,最大限だったと思います.

しかし今,教えられる側から教える側になって,その考えのほとんどが,間違っていたとは言わないまでも,実現可能性のない夢物語だったと気づかされました.例えば,学生時代は授業中の脇道トークが非常に重要だと考えていました.しかし,教える側になってみると,それは非常に難しいことだったのです.なんといっても,カリキュラムを普通にこなすだけで精一杯であり,脇道に手を出す余裕が全くないのです.それは単純に,自分の未熟さが原因なら良いのですが,だからといって,今の教育を適当で済ませて良いわけではありません.そして,迷ってます.どうしていいのかわからなくなっています.そして,今はどうしているかといえば,自分が考えた方法論ではなく,学生時代の先生方がとっていた方法論をそのまま使っています.つまり,劣化コピーです.でも,じたばたしてます.

文化人類学が観察した限りのすべての社会集団では,父親とおじさんはこの男の子に対して,相反する態度をとるそうです.父親が息子に対してきわめて権威的で,親子の交流が少ない社会では,おじさんが甥を甘やかす.反対に,父と息子が親密な社会では,おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって,甥に社会規範をびしびしと教え込む.

(中略)それぞれが彼に対して相反することを言う.一人の男は「こうしなさい」と言い,もう一人の男は「そんなことしなくていいんだよ」と言う.一人は「この掟を守れ」と言い,一人は「そんなの適当でいいんだよ」と言う.同格の社会的威信を持った二人の同性のロールモデルが全く違う命令を下す.この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている.(中略)

何のためにそんな葛藤を仕掛けるのか,その理由はもうおわかりですね.子どもを成熟させるためです.(中略)子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく,「この人はこう言い,この人はこう言う.さて,どちらに従えばよいのだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです.

最終講義 p.233

ここでようやく主題のキーワードが出てきます.矛盾と葛藤です.私の解釈では,矛盾の渦中で葛藤することで,自ら考え,自らで選び,自らで進むことができるようになるということではないかと思います.「単一のガイドライン」というのは,いわゆる「準備されたレール」のことだと思います.この指摘は,それが正しいかどうかは別として,教師は異論を述べる立場をとりなさいということだと思います.

そして,結論として,以下の言葉に結びつけたいです.

この世界に希望をもつためには批判し続けることこそが必要だ ? Edward W. Said (1935-2003)

このブログでの座右の銘となっているサイードの言葉ですが,実は今まで薄っぺらい理解しかできていなかったようです.今までは「何かを良くしようと思ったら批判して改善していかなくてはならない.そして怠ってはならない」程度の意味だと思っていたのですが,内田先生の言葉から眺めると,また違う側面が見えてきます.つまり,次代を育成する(この世界に希望をもつ)ためには,矛盾と葛藤を与え続ける(批判し続ける)ことが必要だと言っているのではないかと感じます.

まとめ

一番大事なことは,ロールモデルとなる大人たちが異なる価値観を持っているということなんです.同一の価値観に収斂してはならない.「今の世の中はこれでいいんだよ」という人がいたら,「世の中,これじゃいけない」ということを言う人が同時にいなければならない.

最終講義 p.236

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