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仕事・所得と資産選択(’08) 第3回

第3回は「わが国の家計調査の歴史」です.誤植があったので,質問票から誤植報告出しておきました.p.38 l.2の「1971年」は「1981年」の誤りです.

日本では大正5(1916)年から家計調査が始まった.この調査結果から,典型的とされる20世帯の労働者の家計ですら「大多数は少許の剰余かあるいは不足を生じたる有様」であり,総支出の1/3強は米代と家賃で占められており,これに光熱,被服,保健などの生活必需費を算入すると,総支出の80.8%に及ぶとし,まさに「エンゲル法則」が生きていることを証明した.その後,大正末期までの間に家計調査狂時代」といわれるほど多くの家計調査が実施されたが,家計分析の結果やその手法,政策にはあまりみるべきものはなく,調査によって時間を稼ぐ「鎮静剤的役割」を持っていた.

戦後になると消費者価格調査がGHQの指令に基づき,昭和21(1946)年に実施された.昭和23(1948)年7月には勤労者世帯収入調査が行われ,昭和25年にはこれら2つの調査を1つにまとめた消費実態調査が行われた.昭和28(1953)年からは品目分類から用途分類に変え,家計調査と呼ばれるようになった.

エンゲル法則が当てはまるのは,一定の収入範囲であることが紹介され,エンゲル法則が適用されない,低所得者層をエンゲル前型,高所得者層をエンゲル後型と呼んだ.戦後すぐはエンゲル前型に45~50%の世帯が属していたといわれる.昭和36(1961)年に生活保護基準額の算定にエンゲル関数が用いられた.

昭和56(1981)年,これまで用いられていた「5大費目分類」(食料費,住居費,光熱費,被服費,その他の諸費)から,「10大費目分類」(食料費,住居費,光熱・水道費,家具・家事用品費,被服及び履物費,保健医療費,交通・通信費,教育費,教養娯楽費,その他の消費支出)へと変更された.

仕事・所得と資産選択(’08) 第2回

第2回は「外国の家計研究の歴史」です.要するにエンゲルですね.てか,歴史はエンゲル以前,エンゲル,エンゲル以後に分類されるらしい.どんだけ,エンゲルなんだよwww.

18世紀前後のイギリスでは,家計は国家の問題として取り上げられていた.ペティは「国富」を計算して,アイルランドの通商力やイングランドの担税力を測定した.彼は国民の中位の人々の消費内容を金額に見積もり,これに人口を掛けて「国富」を算出した.このような方法を「政治算術」と呼ぶ.

「エンゲル法則」はデュクペチオーの研究がなければ生まれなかったかもしれない.各国で起こっている革命の原因を明らかにするために,労働者の生活を知る必要性が説かれ,そのために労働者の家計を国際的に収集することが第1回国際統計専門会議で決定された.デュクペチオーの助力を得て,1853年,ベルギー国内から約1000もの労働者の家計を収集し,その中から153の労働者家計の家計簿が収支項目別,収支階級別に分類され,まとめられた.彼の先駆的な試みは,近代家計調査の出発点であり,エンゲル自身は家計調査を行わず,デュクペチオーの報告書を元に分析を行ったことを考えると,デュクペチオーなくしてエンゲルの家計研究はなかったかもしれない.

エンゲルは生活費を中心とした研究を「個人福祉の測定」「家族福祉の測定」「国民福祉の測定」の3側面から行い,これらを合わせて「デモス(Demos)」と呼ぼうとしていた.分析の結果,「国民の福祉は「消費の中数」によって規定される.飲食物のための,そしてまた一般に肉体を維持するための支出が,総支出の中のより少ない百分率を要求しているならば,国民は,それだけ豊かであり,反対の場合には,その逆である.支出のなかで飲食物や肉体維持に回される割合が減少してゆく方向に「消費の中数」が上昇してゆくならば,それは福祉増大の証拠であり,下降すれば福祉現象の証拠である」.これを「エンゲルの法則」と呼ぶが,エンゲル自身が命名したものではない.

エンゲルが明らかにした法則を「エンゲル法則」として世に広めたのは,マサチューセッツ州の労働局長であったライトである.同様に,シュワーベは「貧乏になればなるほど,所得のうち家賃に支出しなければならない割合は大きくなる」と結論づけており,これは「シュワーベの法則」として知られている.

仕事・所得と資産選択(’08) 第1回

第1回は「戦後の経済変化と生活」です.

昭和20(1945)年に日本は敗戦した.多くの都市が戦災に会い,家屋は壊滅状態になった.都市住宅の1/3が焼失し,実物資産の1/4,船舶は80%,工業用機械は34%が失われた.戦争による被害総額は1057億円,航空機,船舶,平和的資産を合わせると,国富の36%に達した.しかし,戦争直後から復興への道筋を歩き,昭和25(1950)年半ばには貧困から脱却したと言われている.第1回の「経済白書」は昭和22(1947)年に出版された.昭和21年度の歳出1922億円に対して,歳入1156億円と赤字が歳出の40%に達しており,「国も赤字,企業も赤字,家計も赤字」と記されていた.

昭和30年代から40年代にかけての経済成長を「高度経済成長期」と呼んでいる.とくに,昭和30年代,実質経済成長率は年平均9.0%,設備投資は16.7%に達した.この時期を第1次高度成長期と呼ぶ.この時期には3つの好景気と3つの不況期からなっている.最初の好景気は「神武景気」であり,次が「岩戸景気」,最後が「いざなぎ景気」である.池田内閣の「国民所得倍増計画」(昭和35年)は昭和36~45年度の10年間で国民所得を倍増,年平均成長率を7.2%とするものであったが,成長率は12%の増加を示し,実質国民総生産は6年,国民1人あたりの実質国民所得は7年で達成された.反面,急激な経済成長は,水俣病,四日市ぜんそく,イタイイタイ病を始めとする公害を引き起こした.

昭和28(1953)年は「電化元年」と呼ばれ,「3種の神器」である,洗濯機,電気掃除機(後に白黒テレビ),冷蔵庫が普及した.昭和41(1966)年には「新3種の神器」とも3Cともいわれた,カラーテレビ,クーラー,カーの普及が進んだ.

大学と社会(’08) 第8回

第8回は「グローバル化する社会と大学」です.

グローバリゼーションは新しい現象ではなく,ローマ帝国やチンギス・ハーンの時代にもあったものであり,何が新しいかといえば,現象の移り変わりと波及の速度が増したことだという見方がある.近年では,ICTが日進月歩し,通信の高速化が進展する中で,経済・社会の相互依存度が地球規模で飛躍的に増した.それまでの「工業経済」では企業にとって最も重要な財が資本であったが,新たな情報化社会では知識が最重要の資産と見なされるようになっている.

2004年現在,世界の高等教育機関で学ぶ外国人留学生は270万人を数える.1975年には60万人であり,約30年間に4.5倍の規模に膨らんだ.2004年時点での受け入れ上位国は,アメリカに全体の22%,イギリス11%,ドイツ10%,フランス9%と続き,日本は4%である.

外国へ留学生を押し出す要因(Push要因)として考えられるのは,第1に,国内の高等教育が未発達ないし未整備で需要を満たせない場合,第2に,それ以外の理由で国内では教育の機会が得られない場合である.後者の例としては,マレーシアでマレー系住民を意図的に優遇するブミプトラ政策により,華人やインド系住民は進学機会を得づらくなった場合などがある.一方,外国人留学生を自国に引きつける要因(Pull要因)として,先進各国では高等教育の急速な発展により増大した公財政負担の軽減策として,各大学が留学生からの授業料収入への依存度を高めることが求められた国もあった.

1998年,パリでソルボンヌ宣言にドイツ・フランスを中心として,イギリス,イタリアを含む数カ国が署名した.この宣言は99年6月に,当時のEU加盟国15カ国を大きく上回る29カ国の高等教育担当大臣が署名したボローニャ宣言に発展継承された.

アジア太平洋地域でも同様の動きが起こり,アジア太平洋交流機構(UMAP)がそれである.UMAPは域内の高等教育機関または政府の代表などからなる任意団体である.1998年採択のUMAP憲章によれば,その目的は「アジア太平洋地域内の高等教育機関間の協力を推進するとともに,学生と教職員の交流を増やし,高等教育の質を高めることによって,域内諸国,諸地域の文化・経済・社会制度の理解をさらに深めること」である.

1995年に発足した世界貿易機関(WTO)に日本は発足時から加盟しているが,教育も加盟国間で締結された「サービス貿易一般協定」(GATS)に定められた貿易の対象と捉えられている.

また,オーストラリアはアジアを中心とする各国の大学との連携や自国大学の分校設置などの方式により,当該国の学生が自国にいながらにしてオーストラリアの大学の単位を履修できるオフショアプログラムを実施している.このほかに,提携を結んだ2国の大学間で,ある過程の修業年限の一部を自国で学び,残りを外国で学んで資格や学位を取得するトゥイニングプログラムも盛んである.

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