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修論発表前に気をつけるべきこと

12月になると師走と言われるように,学内がワタワタしはじめます.年度末に近づくということは,卒論や修論が佳境を迎えることを暗示しています.この時期になると,卒研発表会やら修論発表会やらで,発表練習する機会も増えてくると思います.そこで,そういった学内での研究発表に向けたエントリを書いてみたいと思います.

過去にも似たようなエントリを何度か書いています.

今回は修論発表前に気をつけるべきことを書いていきます.想定対象読者は大学院修士(博士前期)生です.個人的には,修論発表会はもっと厳粛に行われるべきだと思います.

修士生が気をつけるべきこと

学位審査であることを忘れないで下さい

修論発表会はいつものゼミの延長線上や単なるイベントのように感じるかもしれませんが,歴とした学位審査です.修士という学位を授与するに相応しいかどうかを審査する場です.それは就職活動における最終面接などと同義です.ですから,そのような修論発表会に,どのような服装で挑むのか,どのような立ち居振る舞いをしなくてはならないのか,なんて説明するまでもありませんよね.

発表を聞いていると「先ほど○○くんが説明したように」などという発言があったりします.これはおかしなことです.都合上,研究室ごとに発表がかたまっていたりすると思いますが,それと発表は独立です.先述したとおり,修論発表会は学位審査ですから,修士の学位に相応しいかどうかを審査します.それは一人ひとり審査します.ですから,前後の発表とは独立に自分の発表を行ってください.すでに誰かが言ったことでも,自分の言葉で説明してください.審査対象はあなた自身です.

発表時間は守って下さい

発表時間は守ってください.審査をする都合上,プログラムを編成して順番に発表を行っていますが,審査される側は独立です.ですから,与えられた時間内で完結してください.すごい研究をしていて発表時間が短かったとしても,その短い時間で自分の研究成果を発表することができるかどうかを審査しています.就活で「自己PR(200文字)」と書かれているのに2000文字書く人はいませんよね?そういうことです.

学会発表と同じ発表をしないで下さい

すでに学会発表をしていたり,成果をまとめてこれから発表する準備をしていたりすると思いますが,学会発表と修論発表会は聴講者が違いますので,同じ発表をしないでください.学会はその分野の専門家が聴講者でしょうから,専門的な話題に終始しても問題ないでしょう.しかしながら,修論発表会では専門が近いとはいえ,学会発表の聴講者ほど専門に近くはありません.ご存じのように,発表は自分がしゃべりたいことをしゃべるのではなく,聴講者が聞きたいと思っていることをしゃべるものです.ですから,聴講者に合わせて発表内容は変えてください.時間調整さえすればいいというものではありません.

略語は定義してから使って下さい

前項と重複しますが,修論発表会の聴講者は非専門だと思ってください.自分の研究分野では一般的に通用する略語でも,通じないと思ってください.たとえば,SN比なんて言葉も厳しいかもしれません.「注目する信号とそれに含まれるノイズの比をSN比と呼び,この数値が高いほど性能がよいことを示します」のように説明してください.こういう基礎的な事柄を自分の言葉でしっかりと説明できるか否かは,修士としての資質に関わると思います.

レーザーポインタの使い方に気をつけて下さい

通常のゼミでは使う機会が少ないからか,レーザーポインタの使い方を知らない人が多いように思います.レーザーポインタは指し棒と同じように使ってください.注目すべきところを指し示す道具です.ですから,レーザーポインタを振り回さないでください.注目すべきところを指し示す道具なのに,そのポインタが目まぐるしくブンブン飛び回っていると,それだけで聞く気がなくなってしまいます.人間は動く物体を追いかける性質があります.そのため,レーザーポインタがあちこち飛び回ると,人間がそれを追っかけてしまい,集中して発表を聞くことができなくなります.道具は効果的に使ってください.わからなければ指導教員に教えを請いましょう.

教員が気をつけるべきこと

上記について指導して下さい

上記に示した修士生が気をつけるべきことについて指導して下さい.修士生ともなればもう大人ですから,放っておいても成長すると思いますが,それは研究室での指導の成果ではありません.ちゃんと指導して,研究室卒業生として相応しい優秀な修士生を輩出してください.

フォローは控えて下さい

質疑応答などの場面で,指導教員がフォローに入ることがありますが,控えてください.むしろ,やめてください.先述したように,修論発表会は学位審査会です.学位審査の場において,フォローを入れるということは,その修士生が「審査対象として相応しくない」と言っているようなものです.フォローすべきではないことを自覚してください.そして,自分の指導がまずかったと末代まで後悔して懺悔してください.もう遅いのです.フォローすべきような状況になったのであるならば,指導教員ではない第三者が行うべきです.「まぁそういうものの見方もあると思いますが,あなたの研究目的から考えると,××が△△ということなのですよね?」などと誰かが言えばよいのです.

拍手を要求しないで下さい

発表が終わった後に「ではこれで○○くんの発表を終わりにしたいと思います.拍手をお願いします」などということを聞いたことがありますが,これは発表者に対して大変失礼な行為なのでやめてください.拍手が何のために行われるのかを考えればそのようなことは言えるはずがありません.もし拍手を促したいのであれば「ではこれで○○くんの発表を終わりにしたいと思います(パチパチパチパチ)」などと自分から拍手をすればいいです.普通ならつられて拍手するでしょうし,あまりにもひどい発表であればそれでも拍手はないでしょう.個人的な意見を述べるならば,修論発表会においては拍手の必要はないと思います.審査ですから.

学級経営と学級崩壊

今学期受講している心理学概論(’12)の第2回「教育についての心理学」から学級経営と学級崩壊について,書いてみたいと思います.

QU (Questionnaire Utilities)

QUは早稲田大学の河村茂雄先生が開発した学級集団の状態を把握するための心理検査である.

上記のような40の質問項目に対して,「いつもそうである」「ときどきそうである」「どっちともいえない」「あまりそういうことはない」「ぜんぜんそういうことはない」の5件法で回答してもらう.この結果をプロットして,学級集団を分析する.

横軸はルールであり,最低限の行動様式が整っているかどうかを示す.ルールとは,先生に言われなくても,準備しよう,片付けしよう,などのルールが共有されていることをいう.縦軸はリレーションであり,友達同士の仲のいい親和的な人間関係を示す.子どもたちが和気藹々と勉強していくには,ルールとリレーションの両方が成立していることが必要となる.

学級崩壊

学級崩壊は以下の2つが起きている状態である.

  • 集団での学校教育が成立しない状態
  • 子ども同士が傷付け合ってしまう状態

学級崩壊は急に起きるのではなく,だんだんと起きる.学級の崩れ方は2種類ある.

  1. 管理型
  2. なれあい型

管理型の学級崩壊

管理型は厳しい先生の学級で起こる.先生の指導の下で,ルールを決めて,クラスをまとめていく.このような学級では,子どもたちのルールは整い,先生がいるときはルールに従ってよくまとまる.しかし,先生がいなくなるとバラバラになる.最近は厳しい先生への反発心を持って,崩れていく傾向があり,90年代までに多かったパターンである.

なれあい型の学級崩壊

それまでの管理型による厳しさでまとめる芽球経営が良くないとの批判から,子どもを個に沿ってサポートしていく,生徒・児童一人ひとりと先生が友達のような関係をとりながら,ふんわりとまとめていくような学級経営が増加した.2000年前後に増えてきたのは,このようななれあい型の学級集団である.これらの学級では,先生と子どもの人間関係はほどほどだが,集団生活を送るための最低限のルールが共有化されない.そのため,全体行動における人間関係に軋轢が起きる.これは,信号がない道路を走るようなものである.

学級崩壊の始まり

学級崩壊は管理型・なれあい型の学級が崩れていくことで起こる.上記図2および図3の状態から,悪化すると図4の状態へと進む.

この状態になると,先生は左下の生徒・児童に対して,個別対応に追われるようになる.しかし,実際は個別の問題だけではなく,学級全体が問題を抱えており,全体の崩壊が進む.結果として,図5のような学級崩壊状態になる.

このような状態から立て直すことは難しいので,管理型・なれあい型に類型された段階で,満足型に移行できるように対策するのが,良い.なお,このような類型はいじめや学力にも影響があることが示されている.

まとめ

放送授業では,満足型が多い学校・学年では,どういう指導がされているか,教員はどういう試みをしているかなどが紹介されていますが,それは放送授業を見て下さい.これらは小中学校の話ですが,講義を聞いていて感じたのは,大学も同じであろうということです.学生が伸びる大学は,この類型でいけば満足型になっており,教員も満足型になるような努力をしているだろうことが想像されます.これは,放送授業を聞けばわかることですが,教員1人が頑張ってもどうにもならないことです.教員全体が協調して動くべき問題です.つまり,これこそファカルティ・デベロップメントで行うべきことなのではないでしょうか.

全入時代に大学は何を目指すべきか

少子化の影響で,大学全入時代に突入し,大学がヤバイなどと言われるようになって久しい.そんな大学全入時代において,大学はどうすればいいのだろうか.今日は,それについて私見を述べたいと思う.基本的に,好き勝手をいっているだけなので,信じられないのであれば,その根拠を探したら良いと思うし,そうでないと思うのならば,自らが信じることを信じ抜けば良いと思う.ただ,危ないのは「誰々が言っていたから,それは正しい(間違っている)」という盲信である.あっという間に,足を掬われてしまう.

大学全入時代で入学者数が減っているという嘘

まず,そもそも論から入ろうと思います.「少子化で入学者数が減っているから,大学全入時代になったんだ」を客観的なデータから嘘であると証明します.論じるまでもなく,瞬殺なんですが,文科省の平成23年度学校基本調査を示します.以下,引用します.

大学 2,893,489人(前年度より6,075人増加)過去最大値

うち学部 2,569,349人(前年度より10,158人増加)過去最大値

うち大学院 272,566人(前年度より1,112人増加)過去最大値

平成23年度学校基本調査(確定値)について(報道発表資料) P.1より

平成23年度学校基本調査(確定値)について(報道発表資料) P.7より

はい論破.少子化の影響で子どもが減っているのは事実ですが,大学進学率も上がっているので,全体として入学者数は減っていません.それどころか,過去最大値となっています.つまり,「少子化で入学者数が減っているから入学定員を埋めるために全入時代になっている」というのは,嘘です.

では大学全入時代とは一体何か?

そうなってくると,世間で騒がれている大学全入時代という騒動自体が作り話のように思われるかもしれませんが,根拠が嘘なだけで,大学全入時代の問題自体はあります.これは,偏りが生じてきているためです.

事実,少子化の影響で大学に進学するような年代の人口は減少しています.しかし,進学率が上がってきているので,入学者数が見かけの上で増えているだけです.標準偏差の分布をイメージして下さい.今までこの山の中央から右だけが進学していたという極論を考えて下さい.少子化によってこの面積自体が縮小しています.しかし,入学者数が減っていないことを考えると,山の左側からも進学するようになったというイメージです.しかも,面積自体は減っているので,頭のいい人も普通な人も良くない人も,それぞれ(きっと)均等に減っています.ということは,上位校(例えば東大京大早慶)などに以前は入れなかったような人でも,入れるようになっています.これが偏差値のマジックで,偏差値はあくまで偏りを表しているに過ぎず,絶対的な能力値を示していません.そのため,10年前の偏差値60と今の偏差値60が同じ能力ではありません.と,この話題は今回のテーマの本質ではないので,止めます.

閑話休題.そうすると,当然ながら,みんな良い大学に入りたいのですから,上位校に人気が集中し,今まで中堅に入るような層も,上位校に入れるようになってしまいます.そうすると中堅の入学者が減ってしまう・・・もっと下層の人が中堅を狙ってくる・・・下層の入学者が減ってしまう・・・今まで進学できなかったような人が進学できる・・・.というような仕組みになっています.こうなってくると,特に,下位の大学では,入学者が上の層に逃げてしまうので,実質的に,試験をやるものの入学定員を埋めるために,ほぼ全入という状態にならざるを得ないのは,想像に難くないでしょう.

これが大学全入時代と呼ばれる問題の1つの側面です.本当は他にも色々な問題を内包しているのですが,今回のエントリで取り上げたいのはこの部分なので,ここだけにフォーカスして述べます.しかし,大学全入時代の問題は非常に根深く,こんな表層的な問題だとは思わないで下さい.

全入時代に大学は何をすべきか

ここら辺から,本題に入っていきます.では,そのような時代において,大学は一体どうすればいいのでしょうか?

1つの考え方としては,大学の特色を前面に押し出し,他大学との差別化を徹底的に行う方法があります.

これは理解できる戦略です.難しいのは,その特色をどのように出すのか,そしてどうやって入学希望者に伝えるのかというところでしょうか.その成功例の1つとして,秋田の国際教養大学をあげることができるでしょう.

他にも特色を打ち出して成功している大学はいくつもあります.地方に多いような傾向を感じますが,これは大学全入時代より前から,地方は入学者確保に苦労しており,その成果が実を結んでいると考えるのが妥当ではないかと思います.

もう1つの考え方としては,複数の大学が統合して総合大学化(いわゆるマンモス化)して,基本的な体力を増強し,生き残ろうとする戦略です.

これも理解できる戦略ですが,実際には統合に漕ぎ着けることができず,閉校になるケースもままあります.ところで,実はこの大学統合について,私は非常に過激な考えを持っていて,国立大学はいわゆる旧帝のみを研究大学として残し,残りの国立大学を放送大学に併合すればいいのではないかと思っています.どこからどう考えても実現可能性は低いですが,私立と違って,国公立の生き残りはより難しくなるでしょうから,何らかの手を打たなくてはならないと思います.

そもそも論として,大学はリカレント教育を行う場であるので,高校卒業生(同等程度を含む)だけが入学対象者ではない.いったん大学を出た人だって,大学生になってもいいわけだし,社会人になってから大学に学びに来ても良いはずである.実際,海外では働きながら学ぶことも珍しくない.

だから,大卒以上も大学生になり得るポテンシャルを持っているのに,多くの大学は無視し続けている.素晴らしい市場があるのに,無視し続けている.唯一,そこをターゲットにしている大学がある.放送大学だ.放送大学はリカレント教育を前面に打ち出し,日本で最大の学生数を抱えるマンモス大学となっている.なぜ,大学はそのような巨大市場から目を背けるのか.なぜ,狭い市場で食い合って勝手に同士討ちを繰り広げているのか.

卒業生が再び大学に戻ってくるという身近な例が,博士課程だろうか.これを修士や学部にまで拡大させるとき,一体何が必要だろうか.リカレント教育向きのカリキュラムを準備するのは当然のこととして,「また大学で学びたい」という気にさせなくてはならない.つまり,それは愛校心でもあるし,卒業生・同窓生を大事にするということでもある.

今の大学はそれをしているだろうか?卒業生・同窓生を大事にしているだろうか?愛校心を育てているだろうか?

これができていない大学は,この大学全入時代において,一部を除いて,消滅するだろう.これをなさずに,生き残れる理由を見出すことはできるだろうか.

私大にとっての顧客とは誰か

私大は企業と同じで経営が必要である.ちゃんと経営して利益を上げないと,建学の精神を全うすることすらままならなくなる.そのため,私大においては経営も重要なファクターとなり得る.多くの私大教員は経営に参画している意識はない(実際に経営は理事会等が行っている)と思われるが,一般企業に置き換えれば教員は社員と同じなので,経営に無関心では立ち回らない.そういうわけで,今日は私大における経営健全化を模索する上で避けては通れない,顧客の意識に注目してみたいと思う.

顧客が誰であるかを意識することはドラッカーが指摘するように重要なことである.

われわれの事業は何かを知るための第一歩は,顧客は誰かという問いを発することである.現実の顧客,潜在的な顧客は誰か,顧客はどこにいるか,顧客はいかに買うか,顧客にいかに到達するかを問うことである.

現代の経営

顧客とは利益を継続的に与えてくれる存在であろう.私大におけるそんな顧客は一体誰であろうか.

まず,私大の売り物(商品)はなんであろうか.これは大学の社会に対する役目と同じであると考えられ,教育,研究,社会奉仕であろう.これらの売り物を買う買い手,つまり顧客は一体誰だろうか.研究成果の買い手は企業であることが多いと思う.これは特に問題はない.社会奉仕の買い手は想定されないだろう.ここでの社会奉仕は大学の役割としての社会還元なので,顧客といえる存在は想定されないと思う.残ったのは教育であるが,この買い手は一体誰だろうか.直接的に商品(教育)を得ているのは,学生である.しかし,その学生の学費を支払っている(スポンサー)は保護者であることが多い.

では,私大の顧客は学生か?保護者か?私の答えとしては,いずれも顧客ではない.では,大学進学で進路を選ぶ高校生だろうか?これも顧客ではないと思う.何故なら,これらは先に示した「利益を継続的に与えてくれる」という定義に符号しないからだ.

私大に対して,利益を継続的に与えてくれる存在は誰か?それは,学生でも,保護者でも,ましてや高校生でもない.

私は現時点におけるこの答えを明確に持っている.私大にとっての本当の顧客は卒業生・同窓生である.これ以外には考えられない.

私大の主な収入源は授業料である.授業料収入がなければ,根本的な経営が成り立たない.しかし,授業料収入があれば経営は上手くいくわけではない.実際には,寄付金が非常に重要な役割を占めてくる.寄付金によって設備の増強や奨学金の整備などが行われ,ひいては教育の改善に結びついていく.そんな寄付金は,一体どこから来るのであろうか.縁も所縁もない人が寄付をしてくれるだろうか.寄付をしてくれるのは精々関係者である.学生の保護者も考えられるが,多くは卒業生・同窓生であろう.もし,卒業生が毎年1000円ずつでも寄付をしてくれたとしたら,どうだろうか.毎年1000名の卒業生を輩出していたとすれば,毎年100万円ずつ寄付金が増えていくことになる.これは心強い後支えになるだろう.

もちろんそれだけではない.卒業生・同窓生は大学の評判をも決定づける.こんな会話を想像して欲しい.何も珍しいことではない.

A「ねぇ.Bちゃんって○○大卒だよね?どんな学校だった?」

B「」

この問いにBがどう答えるかで,Aの○○大学に対する印象は決まるといっても過言ではない.そして,愛校心に満ちあふれている卒業生・同窓生なら,良い評判を流してくれるに違いない.さらに,卒業生・同窓生の子どもが大学受験をするときに,「出身大学に入学させたい」と考えたのなら,大学の経営は安定的であろう.さらにさらに,「○○さんちはお子さんを出身大学の○○大学に入学させるんですってー.そんなに良い大学なのかしら?じゃぁうちの子も・・・」なんていうママ友トークが繰り広げられる展開はアツイ!

何もこれは子どもに限った話ではない.学部卒業後就職したが,また学びを継続したいと思ったとき,母校に戻ってくる卒業生を育てているだろうか.どうも私の周りを見ていると,社会人博士は母校ではない大学,しかも国立大学に通っていることが多い.これは出身大学にとって大きな機会損失であるといえよう.ましてや,学生獲得の競争が激化するこのような時代において,卒業生・同窓生を生涯学習の場として出身大学に留まらせる努力は,非常に重要といえよう.それは放送大学の成功を見れば明らかである.

このように愛校心というのは非常に重要であり,卒業生・同窓生の心を1つにすると共に,大学への好循環を絶え間なく実現してくれる.企業内においても同窓が派閥を組んでいたりするのは,元を正せば愛校心の表れであるといえよう.

大学全入時代,大学倒産時代において,最も重要なものが見えてきたと思う.誰でも,自分の出身校,母校がなくなることは嫌である.大学が経営難に陥った時,泣きつくべきは誰であるか.それは,見紛う事なき,卒業生・同窓生であろう.その時,彼らが助けてくれるだけの愛校心を育てることができていただろうか.私大は顧客を大事にしてきただろうか.

なぜ大学の成績分布は正規分布なのか

ご存じではないかもしれませんが,大学の成績分布は正規分布になることが求められていたりします.

これは恐らく,小中高がそうしているから,という完全な思考停止から来ていると思う.義務教育は昨今だいぶ変わったようなので,私の知識は古くて現在と違うかも知れませんが,以前は5が上位○%,4がその次○○%・・・というように,各成績に定員があった.その結果,成績分布は必ず正規分布(のような形)を成すようになります.集団が大きくなればなるほど,統計的に正規分布に近づくことは知られていますが,一教室(特に専門科目)の規模は大きいとは到底いえないので,統計的に考えて,正規分布になることは不自然です.

正規分布を求めるというのは,偏差値至上主義の悪しき習慣です.なぜなら,正規分布させるためには,相対評価を採用しなくてはなりません.相対評価は,評価対象群の中で優劣を競い,序列で成績を付ける方式です.この形の上では,平均からどの程度離れているかを示す偏差値が有効です.ただし,異なる集団における偏差値は比較しても意味がありません.例えば,東大理三内の偏差値50とFラン大学内の偏差値50は能力差があります.これは,説明するまでもないでしょう.

正規分布するはずがない

私が主張したいのは,これ1点に尽きるのですが,成績が正規分布するはずがない.履修者が多く,複数の学科の学生が混在する教養科目ならいざしらず,専門科目が正規分布しているとしたら,私はその担当教員の教育者としての資質を疑わざるを得ない.

大学は入試によって入学者を選抜しているので,入学者の能力差は大きくないはずです.しかも,偏差値至上主義によって,「○○大学○○学部の偏差値は○○」のように書かれているので,その偏差値周辺が入学しているはずなので,大きな能力差はないはずです.このように,入試によって均質的な入学者を選抜することは,大学にとっては意味があることです.それは,授業のレベルを決めるのに重要だからです.もし,入試がその機能を果たさなければ,東大理三レベルとFラン大レベルの学生が共存するクラスで授業を行わなければならない.これは一体,どこにレベルを合わせれば良いのだろうか.そうならないために,入試でレベルを整えるのです.

能力差がさほどない集団なので,ある程度のレベルを設定することができます.そして,どういう卒業生を社会に送り出したいかということを決めます.これをカリキュラムといいます.ここで注目して欲しいのは,カリキュラムは教育の目的と目標を定めていますので,その評価方法は絶対評価であるところです.「○○学科は××や△△の知識を身につけ,実践し,応用できるグローバル人材の育成を目的とします」などとなるわけです.つまり,こうなればいいので,学生間の相対的な能力差など関係ありません.であるならば,そうなったかどうかを総合的に判断する卒業判定においては,各授業の成績が参照されるのですから,各授業はカリキュラムに従って編成されていますから,当然ながら,その目的を達成しうる知識・技能を身につけたかどうかという絶対評価で成績評価されて然るべきです.

さて,そのように入学者を選抜し,カリキュラムを設定しています.そして,ここから問題の核心に入りますが,個別の授業についてです.各講義担当教員は学科のカリキュラムに従って,シラバスを作成します.シラバスには,講義内容,予定,成績評価方法,参考書などが書かれます.ここで重要なのは,成績評価方法が含まれている点です.最近は,これが面倒くさいことになっていて,「中間試験および期末試験に加え,毎授業に行われる小テストを加味し,評価する」なんていうのはダメで,「中間試験40%,期末試験50%,授業毎の小テスト10%の割合で成績評価を行う」などと明確に書かないと上からお叱りを受けます.

で,このようなシラバスに沿って講義を行ったとしましょう.さぁ,この成績分布が正規分布になるために必要なことはなんでしょうか?明らかだと思いますが,各試験の点数が正規分布に従っていることが必要です.はて?では試験とは何のためにやるのでしょうか?私は授業目標に対しての達成度を測るものだと思っています.もし,そうだとすれば,学科カリキュラムで示された目標に沿うように,選抜された入学者のレベルにあった講義を展開しているのであれば,当然に全員が授業目標に達するはずであるので,山が100点に近い部分にピークがある二項分布になって然るべきではないでしょうか?

しかし,実際はそうならないことを求められています.この解釈はいくつかあります.

  • 受講者のレベルを無視してとにかく正規分布になることを最優先して問題を作成する
  • 各試験の点数を序列として,正規分布するように,成績を付ける

このいずれかの方法でしか,成績分布を正規分布にする方法はありません.そして,それはおかしなことです.ある均質的な学生が集まる教室の中でも,パレートの法則が起こり,よく勉強する学生とあまり勉強しない学生に分かれます.大学教員の教育者としての立場を考えたとき,当然ながら,このあまり勉強しない学生をエンカレッジし,カリキュラムの目標に達するように,指導・育成するのが,当然の役割でしょう.その結果,全員が優秀な成績を残すことは,高等教育機関の立場から考えて,至極当然のことであると思われます.しかし,正規分布を求めるということは,それをやめ,パレートの法則に従って,なすがままに放置せよということに他なりません.なぜならば,そうすれば,正規分布に近づくからです.

では,なぜこのような愚かしさが自明であるにもかかわらず,大学は成績分布を正規分布にせよというのでしょうか.それは大学教員の質によるところにあると思われます.大学教員の中には「研究が仕事」と考えている方がいて,教育は片手間でやっている人がいます.そういう方は以下の2タイプのどちらかに分けられます.

  1. 学生のレベル感を無視して,自分の教えたいことを教えて,自分のモノサシで測り,学生に自分の圧倒的な凄さを見せつけることで優越感に浸るタイプ
  2. 問題を起こさないように学生の顔色を伺うことにご執心で,授業をなるべく簡単に,楽にしてあげる優しい先生タイプ

どちらのタイプもカリキュラムを無視しているという点で同じです.こういう人が成績評価すると,1の場合は落第者続出,2の場合は成績優秀者続出となるわけです.

私は,落第者続出でも,成績優秀者続出でも構わないと考えるような極論派ですが,それはカリキュラムに則った上での話です.このようなカリキュラムを無視する行為は,教員として看過できません.そして,上としては,このような成績評価は大学評価機構による第三者評価に耐えませんので,排除したいわけです.その結果が,統計学的に説明が容易で,誰もが異を唱えられない正規分布なのです.

次に,こう考えてみましょう.全ての教員がカリキュラムを正しく理解し,その達成に全力をあげたとしましょう.さて,その場合の成績分布はどうなるでしょうか?まず,入学者選抜によって受講者のレベルは決まります.その上で,目標を立てているわけです.各講義担当教員が素晴らしい教育者で,学生もそれに感化されて真面目に勉学をしたとすれば,成績優秀者が続出して然るべきです.それは,ある目標をクリアしたかどうかで測られる絶対評価であるならば,自然なことです.これは評価基準を下げて甘い評価を下すこととは違います.

授業に出ない,学ぶ気がないなどの学生側に問題がある場合もありますが,教授法の改善によって是正される部分は少なくないと思います.つまり,教員の怠慢による部分はあります.

ですので,高等教育機関で本当に行われるべき評価は以下の通りです.

  1. どのような卒業生を送り出そうとするのか
  2. そのためにどのようなカリキュラムを設定するのか
  3. その要求水準をどのくらいに設定するのか
  4. それを明確に評価しているか

そして,この考え方はJABEEのそれと同じです.もう疲れたので,JABEEについては次の機会に書きます.

最後にもう1度,繰り返したいのですが,大学の専門教育において,成績が正規分布になっているということは,おかしなことだと直感して下さい.

まとめ

最後にチラッと姑息に述べますが,この問題は最初の資料からもわかるように,GPA導入が大きく関わっています.私個人としては,GPAは「個人の努力」を反映しないので,良い指標だと思っていない.GPAは成績評価の平均点を表すから,高スコアが優秀に見えるが,単純に良い成績が取れる「優しい教授」の授業を選択し続ければ高くなるし,成績の付け方が厳密で真の意味での大学教育であるところを実践する「厳しい教授」の授業を選択し続ければ,高くするのは難しくなる問題点がある.つまり,そういう性質のものです.学生の努力や向学心といった,真の学力を示す指標にはなっていないので,私はGPAを支持しないし,偏差値も使い方によっては悪であると思う.統一的に能力を比較するのにGPAが必要だと言われることもあるが,そもそも大学ごとの能力差があるので,それは偏差値と同じで,比べられるものではない.

で.だ.私は成績を付けるにあたって,正規分布しているかどうかなんて,一切気にしない.それは高等教育機関の教育者がすべきことではない.

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