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矛盾と葛藤と批判と

もう皆さんはとっくに読み終えていると思いますが,内田樹先生の最終講義を未だに読み進めています.

どうにもこうにも,内田先生の教育に対する姿勢と私のそれは近いように思います.実際には,全然近くない(足下にも及ばないという意味で)ので,正確な表現をするならば,憧れているだと思います.内田先生の著作については,以前,下流志向についてエントリを書きました.今回は,最終講義の第5章「教育に等価交換はいらない」から,かいつまみつつ,思ったことをちょっと書こうかななどと思いました.いつものレビューのように書いていきたいのですが,共感した部分を引用しようとすると,全文引用になってしまうので,最終講義のレビューはできないかなって思ってます.ですので,今回は一節を抜き出して,ほんの少し書きます.

僕自身にしても,教育とは何か,学校とは何かという問いに対して,十代から様々な個人的解答を試みてきました.そして,それは全部間違っていた.だから,今僕がしゃべっているこの話にしても,構造的に間違っているんです.でも,それでいいんです.(中略)

もし,教師が「教育とは何か?」という問いに最終的な正解を自分は出したと思ったとしたら,その人は教師としてはたぶん機能しなくなってしまうでしょう.どうしていいかわからなくて,じたばたしているのが教師の常態だからです.(中略)「子どもをどう教育すればいいか,私には全部わかっている」という人がいたとしたら,その人は教師には不向きだと僕は思います.

最終講義 pp.227-228

私が学生時代にやっていたブログでは,「教育はこうあるべき」とか「こういう風に指導すべき」といった持論を展開していました.このブログにも「教育」のカテゴリがあり,約60エントリありますが,大半が放送大学の学びについてであって,教育論を論じたものはないと思います.何故そうなったのかというのは,まさにこの一節の通りです.

学生時代はTAをやっていたとはいえ,所詮は学生です.教える立場ではなく教えられる立場です.その中で,多くの授業を経験して,いいところ・わるいところを見て,「こうしよう」「あぁしよう」と思考を巡らしていました.それは「教えられる側」から「教える側」を考えていたのです.それはそれで,当時の自分としては正しかったんだと思います.その時に考え得る,できる,最大限だったと思います.

しかし今,教えられる側から教える側になって,その考えのほとんどが,間違っていたとは言わないまでも,実現可能性のない夢物語だったと気づかされました.例えば,学生時代は授業中の脇道トークが非常に重要だと考えていました.しかし,教える側になってみると,それは非常に難しいことだったのです.なんといっても,カリキュラムを普通にこなすだけで精一杯であり,脇道に手を出す余裕が全くないのです.それは単純に,自分の未熟さが原因なら良いのですが,だからといって,今の教育を適当で済ませて良いわけではありません.そして,迷ってます.どうしていいのかわからなくなっています.そして,今はどうしているかといえば,自分が考えた方法論ではなく,学生時代の先生方がとっていた方法論をそのまま使っています.つまり,劣化コピーです.でも,じたばたしてます.

文化人類学が観察した限りのすべての社会集団では,父親とおじさんはこの男の子に対して,相反する態度をとるそうです.父親が息子に対してきわめて権威的で,親子の交流が少ない社会では,おじさんが甥を甘やかす.反対に,父と息子が親密な社会では,おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって,甥に社会規範をびしびしと教え込む.

(中略)それぞれが彼に対して相反することを言う.一人の男は「こうしなさい」と言い,もう一人の男は「そんなことしなくていいんだよ」と言う.一人は「この掟を守れ」と言い,一人は「そんなの適当でいいんだよ」と言う.同格の社会的威信を持った二人の同性のロールモデルが全く違う命令を下す.この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている.(中略)

何のためにそんな葛藤を仕掛けるのか,その理由はもうおわかりですね.子どもを成熟させるためです.(中略)子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく,「この人はこう言い,この人はこう言う.さて,どちらに従えばよいのだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです.

最終講義 p.233

ここでようやく主題のキーワードが出てきます.矛盾と葛藤です.私の解釈では,矛盾の渦中で葛藤することで,自ら考え,自らで選び,自らで進むことができるようになるということではないかと思います.「単一のガイドライン」というのは,いわゆる「準備されたレール」のことだと思います.この指摘は,それが正しいかどうかは別として,教師は異論を述べる立場をとりなさいということだと思います.

そして,結論として,以下の言葉に結びつけたいです.

この世界に希望をもつためには批判し続けることこそが必要だ ? Edward W. Said (1935-2003)

このブログでの座右の銘となっているサイードの言葉ですが,実は今まで薄っぺらい理解しかできていなかったようです.今までは「何かを良くしようと思ったら批判して改善していかなくてはならない.そして怠ってはならない」程度の意味だと思っていたのですが,内田先生の言葉から眺めると,また違う側面が見えてきます.つまり,次代を育成する(この世界に希望をもつ)ためには,矛盾と葛藤を与え続ける(批判し続ける)ことが必要だと言っているのではないかと感じます.

まとめ

一番大事なことは,ロールモデルとなる大人たちが異なる価値観を持っているということなんです.同一の価値観に収斂してはならない.「今の世の中はこれでいいんだよ」という人がいたら,「世の中,これじゃいけない」ということを言う人が同時にいなければならない.

最終講義 p.236

「原因」と「結果」の法則

良い本だとオススメされたので,買ってみました.最近,オススメされないと本を読まない病にかかっているので,是非オススメして下さい.

さて,特に引用してレビューするような内容ではありません.というか,分厚い本ではないので,全文引用になっちゃいそうなくらいです.基本的には自己啓発本で,ざっくり言えば「心の持ちようで人生が変わってくる」という内容です.「病は気から」とも言いますし,臨床心理学でも心と身体は切り離せないので,心の持ちようで人生が決まるというのも,その通りかと思います.ですので,「心が人を作る」という考え方を受け入れられる方は,するりと読めると思います.

世界的に見て,聖書の次にベストセラーらしいので,まだ読んだこと無い方は一読されると良いかと思います.

下流志向

という感じでオススメされたので,購入してみました.著者は内田樹の研究室を書かれている内田樹先生なので,有名です.昨年度に最終講義がありましたね.基本的に,各種ブログなどを通じて内田先生の思考は流れてくるので,真新しい何かがあったわけではないです.この本を読んだことがないのに,それらの思考を理解できるというのは,すでに各所を通じて内田樹イズムが流れ込んできているんだと思う.それでも,この書籍は良くまとめられていると思う.

今回もいつも通りに引用しながらレビューしたいと思います.

学力低下にはいくつか配慮しなければならない注意点があります.子どもたち自身学力についての自己評価がかなり不正確であるということもその一つです.学力が集団的に落ちているから,学力が低下していることを本人はそれほど痛切には自覚できない.

(中略)だから,同学齢集団が全体として学力が下がっている限り,自分には学力がないということは少しもマイナスにはならない.むしろ,同学齢集団の学力が低下すれば低下するほど,競争においての負荷は軽減する.みんなが一日五時間勉強するなら,一日六時間しなければ勝てないけれど,みんなが一日一時間なら,二時間すれば楽勝です.

p.21 ll.4-15

本書は主にこれが何故起きているのかについて考察しています.そしてこれは教育現場に立っていると毎年強い危機感に駆られる.本書でも触れられているが,1つの問題は偏差値主義である.偏差値は全体集団の中で自分がどこにいるかを指し示す指標であり,相対評価である.であるからして,昔の偏差値40が,今の偏差値40と同じ学力ではない.つまり,偏差値で世代内のポジションが決定されるのであれば,相手よりも少し上に抜きんでればよろしい.全体が下向きの学習意欲で支配されているのであれば,ほんのちょっと頑張るだけで,飛び抜けて優秀に見えたりする.そういうことである.

「どうして教育を受けなくちゃいけないの?」という問いに対しては,そのような問いがあるとは想像もできずに絶句する,というのが大人の側としては当然の対応のはずです.(中略)

しかし,現に経済合理性を動機づけにして子どもを学習に導き入れようとする大人たちがいます.彼らは「勉強すると,これこれこういう「いいこと」があるんだよ」という言い方で子どもたちを功利的に誘導しようとする.勉強すると「いい学校」に入れるし,「尊敬されるポスト」に就けるし,「高い給料」が取れるし,「レベルの高い異性」を配偶者に迎えることができる,というような説明をする.

p.41

ぶっちゃけ,一生懸命勉強してきたけど,いい学校にも入れてないし,レベルの高い異性も配偶者に迎えることはできていないので,勉強するモチベーションとして説明するには説得力に欠けています.僕が言った場合の話ですが.閑話休題.大学にもなれば,「どうして勉強をしなくちゃいけないの?」とは言いませんが,「それが何の役に立つんですか?」というのはある.これに関してはTwitter上でも似たような論があった.

これに同意できたので,おもしろおかしくいじってツイートしてみたところ,激しくRTとFAVられました.

わざと詳細まで説明しないで投げっぱなしな文章にしておいたことで,色々非公式RTが打ち込まれて,面白かったです.サイレントマジョリティを実感できました.わざわざ非公式RTを打ってくる人は,言葉の表面しか読んでいないようでした.それはそれとして,少し説明すると,要点は2つです.1つは,「あなたが今しているような仕事は序の口で,大学で学んだ内容を活用するような仕事をするには,まだまだ青二才である」という言及.もう1つは元ツイートと同じような感じですが,「お前は大学で何を学んだんだ?取り返しの付かない4年間を無駄にしたのか?」という皮肉です.前者はそのような決断をするには早急であり,人生知った風になるなということです.謙虚に学びを積み重ねる努力が自分自身を高めていくでしょうから.これは後の言及にも関係しますので,後述します.後者については,「無駄」と言い切れるほど,何かを極めたのだろうか?「無駄」と言い切れるほど,人生の全てを見たのだろうか?自分が知るだけの極狭い世界で局所解に陥って結論を急いでいるだけに見えます.結論を急ぐ意味も分からないし,「無駄」と言い切る意味もわからないです.

それはそれとして,少し昔の話をしましょう.大学の「複素関数論」だか「関数解析」だか科目名は忘れましたが,非常に面白いことを話されるおじいちゃん先生の科目でした.心理学でいうところのペグワードを打ち込むのが上手い先生で,テイラー展開の講義中に「テイラーは仕立屋さん」とかボソッという先生でした.他にも「中国語で手紙はトイレットペーパー」とか「川は流れない.流れているのは水だ」とか「電車が来た.来てない.これから来るんだ」とか・・・.話を戻すと,この先生の講義は実に面白いのですが,中身はよくわからない.ひたすら板書をして,ふーんって思って,それでもよくわからずに「なんの役に立つの?」と思いながら講義を聴いていました.そして,最後の授業で,全てが繋がったのです.「これがフーリエ変換です」この一言で,今までやってきたちんぷんかんぷんだった講義の内容が全て繋がって理解できたのです.あれは衝撃的な授業でした.

ですから,授業中にもし学生から「これは何の役に立つんですか?」と質問があったらこう答えたい.「知らん.だが教えてやる.何かに役立ててみろ」と.最近の学生はこれではついてこないだろう.でも,最近の学生は真面目でもあるので,講義には出るし,話も聞くだろう.そして,最後の最後にでも「実はこれは○○に役立つんだ」のような種明かしをしてどっかんどっかんさせたいですね.難しいです.

自己決定したことであれば,それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない.

ある種の「自己決定フェティシズム」です.

これの典型は医療現場での「インフォームド・コンセント」だと思います.

p.140 ll.11-14

まさに自分のUC治療がこれに当たってて,治療方針は医師と相談の上で,私が決定しています.自分が納得できる治療だけを受けているといっても過言ではないです.ですので,通常であれば寛解導入にステロイドを使うところですが,未だに使っていません.裏を返せば,それほど深刻ではなく,選択肢が豊富にあるという言い方もできるでしょう.

閑話休題.「自己決定フェティシズム」ならよいのですが,自己決定なのに,納得しないタイプがいることもあります.就職活動が終わって,慢心して卒業研究をせず,研究室にも来ず,年度末になって「就職先が決まっているから卒業できないと困る」という不思議な論理展開をする学生がいることもあります.自己決定には責任を持って欲しいものです.

財界や文科省は,大学は送り出す卒業生という「製品」に対して,ふつうの工場がやっているように「品質保証」をしなさいと言ってきます.ちゃんと規格品として標準的な質に達しているかどうか,質の保証をしろ,と.

しかし,これは原理的には無理な注文なわけです.だって,「教育のアウトカム」は測定不能だからです.教育成果として測定可能なものというのは,教育成果のうちのほんとうにごく一部のことにしかすぎない.

p.184 ll.5-10

本来育児って,すごく時間のかかる仕事であって,自分の育児が成功したか,失敗したかなんてことは,子どもを持つとわかるけれども,二十何年たってもよくわからないものでしょう.よくわからないのが当たり前だと思うんです.育児労働の成果をただちに,それこそ四半期とか一,二年で目に見えるかたちで見せなさいとプレッシャーをかけられても困る.そういうスパンじゃ測定できないものなんだから.

p.197 ll.7-11

先ほどの「大学の学部でやった勉強なんて役にたたない」はこれに関係します.大学の授業に役立つかどうかを測るには,就職して数年では恐らく全くわかりません.少なくとも10年は必要じゃないかと思います.私の出身研究室の卒業生は謙虚な人が多いので,卒業後に会うと「学生時代にもっとちゃんと勉強しておけば良かった」とか「あの時いわれたことが今ならわかります」とか言ったりする.これは大学卒業時点で見た教育効果としては推し量れません.大学を卒業し,社会に出て活躍し始めた時に,過去を振り返って初めて得られる教育効果です.教育の効果を測るのは実に難しい.

教育者に必要なのは一つだけでいい.「師を持っている」ということだけでいい.その師は別に直接に教えを受けた人である必要はない.書物を通じて得た師とか,あるいは何年か前に死んだ人で,人づてに聞いてこんな立派な先生がいるというのを知ったというのだって,かまわない.「私淑する」というのは,どんなかたちでもできるんです.教育を再構築するというのは,この師弟関係の力動性,開放性を回復することから始めるしかない.

p.217 ll.6-11

これはすごく大事な話で,同じような話は以下の書籍でも言及されています.

教育を受けるというのは,慕える師と出会うことで初めて意味を見いだせるのかもしれません.その意味では,私は素晴らしい師に巡り会ってきている.自分が感じ取ったその先生方の生き方や考え方を実践しているつもりではある.できてないと思うけど.良い師に巡り会えるまで,教育に絶望せずにいたいものです.

まとめ

教育に興味がある方は一読されると良いと思います.学生も学ぶべきことが多いと思います.教育の力と可能性は常に高くしておきたい.

豊かな心を育むために読むべき10冊の本

少し乗り遅れていますが,「○○が読むべき10冊」とかいうタイトルが流行っていたので,便乗してみます.題して「豊かな心を育むために読むべき10冊」です.では,10冊ほど挙げさせて頂きます.

異論は認めない.

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