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矛盾と葛藤と批判と

  • 投稿: 2012年04月24日 23:05
  • 更新: 2012年04月24日 23:06
  • 教育

もう皆さんはとっくに読み終えていると思いますが,内田樹先生の最終講義を未だに読み進めています.

どうにもこうにも,内田先生の教育に対する姿勢と私のそれは近いように思います.実際には,全然近くない(足下にも及ばないという意味で)ので,正確な表現をするならば,憧れているだと思います.内田先生の著作については,以前,下流志向についてエントリを書きました.今回は,最終講義の第5章「教育に等価交換はいらない」から,かいつまみつつ,思ったことをちょっと書こうかななどと思いました.いつものレビューのように書いていきたいのですが,共感した部分を引用しようとすると,全文引用になってしまうので,最終講義のレビューはできないかなって思ってます.ですので,今回は一節を抜き出して,ほんの少し書きます.

僕自身にしても,教育とは何か,学校とは何かという問いに対して,十代から様々な個人的解答を試みてきました.そして,それは全部間違っていた.だから,今僕がしゃべっているこの話にしても,構造的に間違っているんです.でも,それでいいんです.(中略)

もし,教師が「教育とは何か?」という問いに最終的な正解を自分は出したと思ったとしたら,その人は教師としてはたぶん機能しなくなってしまうでしょう.どうしていいかわからなくて,じたばたしているのが教師の常態だからです.(中略)「子どもをどう教育すればいいか,私には全部わかっている」という人がいたとしたら,その人は教師には不向きだと僕は思います.

最終講義 pp.227-228

私が学生時代にやっていたブログでは,「教育はこうあるべき」とか「こういう風に指導すべき」といった持論を展開していました.このブログにも「教育」のカテゴリがあり,約60エントリありますが,大半が放送大学の学びについてであって,教育論を論じたものはないと思います.何故そうなったのかというのは,まさにこの一節の通りです.

学生時代はTAをやっていたとはいえ,所詮は学生です.教える立場ではなく教えられる立場です.その中で,多くの授業を経験して,いいところ・わるいところを見て,「こうしよう」「あぁしよう」と思考を巡らしていました.それは「教えられる側」から「教える側」を考えていたのです.それはそれで,当時の自分としては正しかったんだと思います.その時に考え得る,できる,最大限だったと思います.

しかし今,教えられる側から教える側になって,その考えのほとんどが,間違っていたとは言わないまでも,実現可能性のない夢物語だったと気づかされました.例えば,学生時代は授業中の脇道トークが非常に重要だと考えていました.しかし,教える側になってみると,それは非常に難しいことだったのです.なんといっても,カリキュラムを普通にこなすだけで精一杯であり,脇道に手を出す余裕が全くないのです.それは単純に,自分の未熟さが原因なら良いのですが,だからといって,今の教育を適当で済ませて良いわけではありません.そして,迷ってます.どうしていいのかわからなくなっています.そして,今はどうしているかといえば,自分が考えた方法論ではなく,学生時代の先生方がとっていた方法論をそのまま使っています.つまり,劣化コピーです.でも,じたばたしてます.

文化人類学が観察した限りのすべての社会集団では,父親とおじさんはこの男の子に対して,相反する態度をとるそうです.父親が息子に対してきわめて権威的で,親子の交流が少ない社会では,おじさんが甥を甘やかす.反対に,父と息子が親密な社会では,おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって,甥に社会規範をびしびしと教え込む.

(中略)それぞれが彼に対して相反することを言う.一人の男は「こうしなさい」と言い,もう一人の男は「そんなことしなくていいんだよ」と言う.一人は「この掟を守れ」と言い,一人は「そんなの適当でいいんだよ」と言う.同格の社会的威信を持った二人の同性のロールモデルが全く違う命令を下す.この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている.(中略)

何のためにそんな葛藤を仕掛けるのか,その理由はもうおわかりですね.子どもを成熟させるためです.(中略)子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく,「この人はこう言い,この人はこう言う.さて,どちらに従えばよいのだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです.

最終講義 p.233

ここでようやく主題のキーワードが出てきます.矛盾と葛藤です.私の解釈では,矛盾の渦中で葛藤することで,自ら考え,自らで選び,自らで進むことができるようになるということではないかと思います.「単一のガイドライン」というのは,いわゆる「準備されたレール」のことだと思います.この指摘は,それが正しいかどうかは別として,教師は異論を述べる立場をとりなさいということだと思います.

そして,結論として,以下の言葉に結びつけたいです.

この世界に希望をもつためには批判し続けることこそが必要だ ? Edward W. Said (1935-2003)

このブログでの座右の銘となっているサイードの言葉ですが,実は今まで薄っぺらい理解しかできていなかったようです.今までは「何かを良くしようと思ったら批判して改善していかなくてはならない.そして怠ってはならない」程度の意味だと思っていたのですが,内田先生の言葉から眺めると,また違う側面が見えてきます.つまり,次代を育成する(この世界に希望をもつ)ためには,矛盾と葛藤を与え続ける(批判し続ける)ことが必要だと言っているのではないかと感じます.

まとめ

一番大事なことは,ロールモデルとなる大人たちが異なる価値観を持っているということなんです.同一の価値観に収斂してはならない.「今の世の中はこれでいいんだよ」という人がいたら,「世の中,これじゃいけない」ということを言う人が同時にいなければならない.

最終講義 p.236

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