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カラーユニバーサルデザイン

世の中には,一見すると健常人と区別が付かない障害を持っている人がいます.内部障害や内臓疾患がそれに該当し,UCももちろん見えない障害の1つと考えられます.そのため,色々と布教活動をしています.

目が見えない方は杖を持つというシンボルがあるのでわかりやすいのですが,耳が聞こえない方は特にそれといったシンボルはありません.そのため,難聴に対する理解も得られにくいです.

そして,今日は色弱について,啓蒙したいと思います.題材はカラーユニバーサルデザインです.

色弱とは

色弱とは,そもそもなんでしょうか.勉強前の私の解答は「色を正しく認識できない人」です.間違ってはいないと思いますが,正確な理解こそが助けとなります.CUDOの説明を噛み砕いて,以下に説明します.

ヒトの眼の網膜には,錐体という光を感じる視細胞があります.錐体には3種類あり,L錐体(赤錐体),M錐体(緑錐体),S錐体(青錐体)がある.この錐体は,血液型のように,生まれつき5つのタイプに分類されます.

  • C型 95% 一般色覚者
  • P型 1.5% 色弱者
  • D型 3.5% 色弱者
  • T型 0.001% 色弱者
  • A型 0.001% 色弱者

C型は3種類の錐体が全て揃っています.P型はL錐体がないか,または分光感度がM錐体に近くなります.D型はM錐体がないか,または分光感度がL錐体に近くなります.T型はS錐体がなく,A型は3種類のいずれかの錐体しかないか,またはいずれの錐体もありません.T型とA型は10万人に1人程度ですが,P型とD型は合わせて5%程度おり,20人いれば1人はいるという割合です.教室が30人規模であることを考えれば,1人は色弱者がいるであろう割合です.

では,これら色弱者にとって,色はどのように見えているのでしょうか.以下に例を挙げます.

色覚タイプの特徴より引用.

このように,赤と緑はそのように見えていないことがわかります.

ユニバーサルデザイン

ユニバーサルデザインの7原則は以下の通りです.

  1. 公平な利用
  2. 利用における柔軟性
  3. 単純で直感的な利用
  4. わかりやすい情報
  5. 間違いに対する寛大さ
  6. 身体的負担は少なく
  7. 接近や利用に際する大きさと広さ

広義では,アフォーダンスも含まれるのではないでしょうか.

カラーユニバーサルデザイン

色についてのユニバーサルデザインが,カラーユニバーサルデザインです.色覚バリアフリーと言われることもあります.カラーユニバーサルデザインは次3つのポイントがあります.

  1. 出来るだけ多くの人に見分けやすい配色を選ぶ
  2. 色を見分けにくい人にも情報が伝わるようにする
  3. 色の名前を用いたコミュニケーションを可能にする

カラーユニバーサルデザイン(CUD)

これらを満たせば,カラーユニバーサルデザインの資料を作れるでしょう.では,どうやるのか?この分野の専門家がそれを示しています.推奨配色セットは以下の通りです.

カラーユニバーサルデザイン推奨配色セットより引用.

このような配色セットがあれば,安心ですね.ちょっと見てみると,赤はRGBが(255,0,0)ではなく,(255,40,0)とちょっとGを混ぜているところがポイントのようです.赤,青,緑の錐体が正しく機能しないので,原色は使わないというのが原則でしょう.

また,色覚シミュレーションを行うツールもいくつかあるようです.身近なところでは,Adobe Photoshop/Illustrator CS4以降にその機能があるようです.

教育的配慮から

このように,教室全体の5%程度が色弱者である可能性があり,教育的配慮から,カラーユニバーサルデザインを採用することは望ましいと思われます.特に,教育機関ならではの問題も起こります.それは黒板です.黒板は黒い板とは書くものの,実際には緑色です.その黒板にチョークを使って板書をするわけですが,重要だと思う箇所を何色のチョークで書くでしょうか?一般的に考えると,赤でしょう.しかし,先に示したように,赤と緑は色弱者にとって区別が付きにくいです.つまり,この組み合わせで書かれると,何も書いていないように見えるのです.こんなものは,強調でも何でもありません.現在では,カラーユニバーサルデザイン対応のチョークも販売されています.ホワイトボードの場合では,黒と赤,緑と赤,の組み合わせは見分けづらいようです.

では,プロジェクタを使う場合はどうでしょう.同じです.同じ配慮が必要です.さらに,レーザーポインタを使う場合,赤色レーザーポインタは区別が付かないそうです.そこで,緑のレーザーポインタが推奨されています.それから,もっと注意しなくてはいけないのは,グラフです.一般的に,プレゼンなどで用いるグラフは色の違いで視覚的に見せることが多いです.ところが,カラーユニバーサルデザインを考えたとき,その配色は適切でしょうか?福島県のCUDガイドでは折れ線グラフの実例を挙げて,その問題点と対策を示しています.これらをまとめた福島県のカラーユニバーサルデザイン ガイドブック(PDF注意)がとても参考になります.

このように,教員は講義資料や配付資料などの配色に十分に気をつける必要があるでしょう.

まとめ

教員の方々は,経験的にカラーユニバーサルデザインを取り入れていると思いますが,まだまだ駆け出しの私にとっては,学ぶことばかりです.教育をするにあたって,多くのことを勉強したつもりではありますが,まだまだ全然足りておらず,大学教員として教授職に相応しいとは言えません.まったく勉強の足らない自分に苛立ちを感じる日々です.無力です.

参考

コピペレポートは何故ダメなのか?

もう何回かコピペレポートの是非について言及している気がするけど,また言及する.今回は「コピペはダメか」ではなく「コピペレポートはダメか」について論じたい.というのも,「コピペ」を「ダメだ」の一言で断罪するのは難しい.何故なら,大学教員のみならず,コンピュータを使う多くの人はコピペを行っているので,それを棚に上げて,単純に「ダメだ」では片付けられない.当然ご存じであろうが,論文誌に掲載される論文だってコピペは当然使われる.使わずに書かれた論文なんてあるのだろうか?問題なのは,コピペではないのである.今日はその観点からコピペレポートのダメさを指摘する.先に結論を述べると,「学生はコピペなどせずに,実直に学びなさい」というのが私の不変の回答である.

定義:コピペレポート

まず,共通認識として,コピペレポートとは何であるかを定義します.このエントリでは「コピペレポート」を「大半がコピペで構成されたレポート,または丸写しのレポート」とします.コピペをしているが,大半ではなくレポートの一部に限局しているものは,コピペレポートとして扱いません.

著作権と引用

まず著作権法の関連箇所を引用し,根拠を明確にします.関連が強いのは第三十二条と第三十五条です.

(引用)
第三十二条  公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
2  国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない。

(学校その他の教育機関における複製等)
第三十五条  学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者及び授業を受ける者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
2  公表された著作物については、前項の教育機関における授業の過程において、当該授業を直接受ける者に対して当該著作物をその原作品若しくは複製物を提供し、若しくは提示して利用する場合又は当該著作物を第三十八条第一項の規定により上演し、演奏し、上映し、若しくは口述して利用する場合には、当該授業が行われる場所以外の場所において当該授業を同時に受ける者に対して公衆送信(自動公衆送信の場合にあつては、送信可能化を含む。)を行うことができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該公衆送信の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。

著作権法

まず,第三十二条を見ましょう.これは「引用」の範囲をしめしています.まず,引用できるものとして「公表された著作物」である点に注意して下さい.早くもこの1点によって,コピペレポートの一角である丸写しレポートはダメであることがわかります.そもそも引用じゃないという批判があると思いますが,レポートは「公表」されていませんので,引用することはそもそもできません.ですので,後述しますが,これは剽窃となります.

また,引用する場合においても,「引用の目的上正当な範囲内」という制限があります.この「正当な範囲内」とはなんでしょうか?

引用される部分が「従」で自ら作成する著作物が「主」であるように内容的な主従関係がなければなりません。

はじめての著作権講座

主従関係がなければならないと指摘しています.つまり,引用する部分が自らの主張する内容を補助する役割がなければなりません.要するに,ほとんどが引用で,自らの主張がない,または少ないものは,引用と認められないということです.

さらに,引用に関する要件として,以下が挙げられています.

  • 公表された著作物であること
  • 明瞭区別性
  • 主従関係
  • 出所明示
  • 引用する側も著作物であること

「引用」に名を借りた著作権侵害(リンク先PDF注意)

この指摘によれば,引用する側も著作物でなければならないので,コピペのみで構成されたレポートは著作物に該当しませんので,引用は認められません.また,出所明示も当然のことです.これは,自らが剽窃をしていないことを示すとともに,読者がその原典を辿りたいと思ったときに,見つけるための助けとなる情報です.正確に記されるべきです.

剽窃行為

次に,引用に似た行為である剽窃行為について述べます.引用は著作権法によって認められた正当な行為ですが,剽窃は犯罪行為です.剽窃は以下のように定義されます.

盗作(とうさく)とは、他人の著作物にある表現、その他独自性・独創性のあるアイディア・企画等を盗用し、それを独自に考え出したものとして公衆に提示する反倫理的な行為全般を指す。「剽窃(ひょうせつ)」とも呼ばれる。

盗作 – Wikipedia

ザクッといえば,引用の範囲を逸脱するなどして,著作権を侵害する行為全般を指します.そして,著作権法第百十九条では以下のように書かれています.

第百十九条  著作権、出版権又は著作隣接権を侵害した者(第三十条第一項(第百二条第一項において準用する場合を含む。)に定める私的使用の目的をもつて自ら著作物若しくは実演等の複製を行つた者、第百十三条第三項の規定により著作権若しくは著作隣接権(同条第四項の規定により著作隣接権とみなされる権利を含む。第百二十条の二第三号において同じ。)を侵害する行為とみなされる行為を行つた者、第百十三条第五項の規定により著作権若しくは著作隣接権を侵害する行為とみなされる行為を行つた者又は次項第三号若しくは第四号に掲げる者を除く。)は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

著作権法

著作権法を犯したものには,罰則規定があります.よって,剽窃は犯罪行為です.

コピペレポートは何故ダメなのか?

では,これらの前提を元にして,コピペレポートが何故ダメなのかを外堀を埋めながら説明していきます.再度,コピペレポートの定義を整理します.本エントリにおけるコピペレポートというのは以下のいずれかのレポートを指します.

  1. レポートの大半が単一のまたは複数の著作物からコピペで構築されたレポートである
  2. 他人のレポートを丸写ししたレポート

まず,コピペレポートに限らず,多くのレポートは引用が正しく行われていません.具体的には,出所が明示されていなかったり,引用部分が明確でなかったり(明瞭区別性)します.そのため,そもそもコピペかどうかのいかんに関わらず,引用に問題があるといえます.

そこに,殊更にして,コピペレポートは引用元を明示しません.正確に言えば,明示できないのです.何故ならコピペだからです.丸写しだからです.もし,引用であるならば,出所明示するべきです.「○○実験のレポート.○○太郎,2011.」とか.しかし,それも引用の認めるところではありません.先に示したように,引用が認められる範囲は「公表された」著作物です.レポートは提出しますが,公表されていませんので,引用の要件を満たしません.よって,過去レポを引用しようとする行為は不可能です.もし,公表された著作物としての過去レポがあるのであれば,出所明示をして引用したら良いと思います.

丸写しのレポートは最早議論の余地は皆無で,剽窃ですので,犯罪行為です.我々教員は学生を犯罪者にするために教育をしているわけではないので,ぶん殴ってでも止めさせる必要があると,私は考えます.

次に,複数の過去レポをベースとして,コピペがばれにくいように構成されたレポートはどうでしょうか.もちろん,出所明示されていないので,引用と認められませんので,剽窃です.しかも,複数の過去レポをコピペしているだけなので,引用の要件である主従関係ももちろん満たしません.

よって,いずれの方法を用いても,コピペレポートが認められることはありません.

教育的観点からみるコピペレポートの害

コピペレポートが蔓延しているということは,つまりそれは学生自身が犯罪行為を行っているという自覚に乏しいことを意味します.以下,孫引きですが,思春期・青年期の心理臨床 p.98より,非行概念の模式図を引用します.

コピペレポートは広義の意味で非行に該当しますので,食い止めなくては反社会性が増し,虞犯ひいては犯罪に手を染める可能性がでてきます.つまり,善悪の見境が付かなくなる可能性があります.これは教育機関の目指すところではありません.正されるべきです.

では,学生は何故コピペレポートを是とするのでしょうか.そうなってしまう原因の1つには,教師側が正当な評価をしてくれないことが考えられます.つまり,独自に考えて書いたレポートよりも,コピペレポートの方が高評価である,またはコピペレポートでも単位をとることができるという現実が実在しています.これに対して,我々教員は毅然たる態度で立ち向かわなくてはなりません.学生が犯罪を犯そうとするその片棒を担いではいけません.そのため,我々教員は以下のいずれかの対応をとる必要性があるといえます.

  1. コピペレポートを受理しない毅然とした態度を示す
  2. コピペではレポートが作成できないように工夫する

このいずれでも良いと思いますが,私は後者の方法を採用しています.何故なら,レポート受理は私が行う権限がなく,あくまで評価を行う立場にあるからです.そのため,この負の連鎖を断ち切るためには,後者を採用するしかありません.具体的には,レポートにおける考察課題を換えています.にも関わらず,何も考えることなく,過去レポを出してくる学生がいるので,異なる課題を考察しているという,実に滑稽な事象があります.我々の教育意義とはどこにあるのでしょうか.

さて,それはそれとして,教育的観点からコピペレポートを排除したいもう1つの理由は,コピペでは何も学習されないからというものもあります.スポーツを考えれば直感的に理解できると思います.スポーツではいくら理論を学んでも上手くなりません.身体を実際に動かして経験しなくては成長しません.勉強でも同じです.理論ばかり学んでも,なかなか身につきません.そのため,演習問題を解いて,実際に使ってみて学ぶわけです.それがコピペではどうでしょう?答えを写してくるわけですから,答えは合います.導出過程もコピペしてくれば,そこの途中点も入って満点となるでしょう.でも,その解法を理解しているわけでも,解けるわけでもありません.ただ,答えをそこに書いただけです.これでは達成度は測れません.教員側からは達成度が測れないだけで済みますが,学生側からすれば自分を誤魔化して騙しているわけで,最終的に理想と現実のギャップに見舞われます.大学卒業して働き始めた社会人がよく言う言葉に「学生時代にもっと勉強しておけば良かった」というのが,これです.しっぺ返しは必ずきます.働きながらさらに学ぶ苦労を買うか,学生時代からコツコツ積み重ねるか.時間が有限であることを考えると,コツコツ積み重ねる方が賢い選択のように思えます.

そのような事情から,レポートは書いて欲しいのです.手書きが望ましいとは思いますが,時代を考えればワープロでも良いでしょう.でも,自分で考えて書いて下さい.過去レポが目に入ることもあるでしょう.見るなとはいいません.見ても構いませんが,写さないで下さい.過去レポを読んで理解して,噛み下し,自分の言葉で書いて下さい.それはコピペではありません.自分の言葉ですから.

これが手書きだと,別の問題が出てきます.書き写すのが面倒くさいという問題です.そうすると,なるべく写す箇所を少なくしようと考えるわけです.そうすると,何が起きるかといえば,不要な箇所がどこかを考える,という思考が働きます.これは学習効果上,意味があることです.どこがいるのか,どこがいらないのか.これを考えられるということは,一定の理解をしていなくてはできません.

もう1つコピペが与える害を述べます.それは文章構成力の問題です.恐らく,過去の教育過程において,大学レポート級の文章を書く機会はなかったのではないかと思います.文章構成力,論理的思考など,色々な要素が必要になってきます.今の学生は,我々よりもよっぼど多くの文を書いていると思います.それは,チャットだったり,メールだったり,ブログだったり,ツイッターだったり.でも,それらはいずれも「文」であり「文章」ではないのです.そのため,箇条書きはできても,文章で表現することはできないのです.これは,トレーニングしなくてはできるようにはなりません.レポートはその機会の1つといっても過言ではありません.本来はそのような目的はないはずなのですが・・・.

まとめ

コピペレポートは百害あって一利なし.そうでなくてはならない.我々教員は,コピペレポートがいかにダメであるかを学生が理解するまで説明し,やめさせなくてはならない.そして,コピペレポートには毅然とした態度で挑まなくてはならない.教育者として最低限なすべきことだと思う.

矛盾と葛藤と批判と

もう皆さんはとっくに読み終えていると思いますが,内田樹先生の最終講義を未だに読み進めています.

どうにもこうにも,内田先生の教育に対する姿勢と私のそれは近いように思います.実際には,全然近くない(足下にも及ばないという意味で)ので,正確な表現をするならば,憧れているだと思います.内田先生の著作については,以前,下流志向についてエントリを書きました.今回は,最終講義の第5章「教育に等価交換はいらない」から,かいつまみつつ,思ったことをちょっと書こうかななどと思いました.いつものレビューのように書いていきたいのですが,共感した部分を引用しようとすると,全文引用になってしまうので,最終講義のレビューはできないかなって思ってます.ですので,今回は一節を抜き出して,ほんの少し書きます.

僕自身にしても,教育とは何か,学校とは何かという問いに対して,十代から様々な個人的解答を試みてきました.そして,それは全部間違っていた.だから,今僕がしゃべっているこの話にしても,構造的に間違っているんです.でも,それでいいんです.(中略)

もし,教師が「教育とは何か?」という問いに最終的な正解を自分は出したと思ったとしたら,その人は教師としてはたぶん機能しなくなってしまうでしょう.どうしていいかわからなくて,じたばたしているのが教師の常態だからです.(中略)「子どもをどう教育すればいいか,私には全部わかっている」という人がいたとしたら,その人は教師には不向きだと僕は思います.

最終講義 pp.227-228

私が学生時代にやっていたブログでは,「教育はこうあるべき」とか「こういう風に指導すべき」といった持論を展開していました.このブログにも「教育」のカテゴリがあり,約60エントリありますが,大半が放送大学の学びについてであって,教育論を論じたものはないと思います.何故そうなったのかというのは,まさにこの一節の通りです.

学生時代はTAをやっていたとはいえ,所詮は学生です.教える立場ではなく教えられる立場です.その中で,多くの授業を経験して,いいところ・わるいところを見て,「こうしよう」「あぁしよう」と思考を巡らしていました.それは「教えられる側」から「教える側」を考えていたのです.それはそれで,当時の自分としては正しかったんだと思います.その時に考え得る,できる,最大限だったと思います.

しかし今,教えられる側から教える側になって,その考えのほとんどが,間違っていたとは言わないまでも,実現可能性のない夢物語だったと気づかされました.例えば,学生時代は授業中の脇道トークが非常に重要だと考えていました.しかし,教える側になってみると,それは非常に難しいことだったのです.なんといっても,カリキュラムを普通にこなすだけで精一杯であり,脇道に手を出す余裕が全くないのです.それは単純に,自分の未熟さが原因なら良いのですが,だからといって,今の教育を適当で済ませて良いわけではありません.そして,迷ってます.どうしていいのかわからなくなっています.そして,今はどうしているかといえば,自分が考えた方法論ではなく,学生時代の先生方がとっていた方法論をそのまま使っています.つまり,劣化コピーです.でも,じたばたしてます.

文化人類学が観察した限りのすべての社会集団では,父親とおじさんはこの男の子に対して,相反する態度をとるそうです.父親が息子に対してきわめて権威的で,親子の交流が少ない社会では,おじさんが甥を甘やかす.反対に,父と息子が親密な社会では,おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって,甥に社会規範をびしびしと教え込む.

(中略)それぞれが彼に対して相反することを言う.一人の男は「こうしなさい」と言い,もう一人の男は「そんなことしなくていいんだよ」と言う.一人は「この掟を守れ」と言い,一人は「そんなの適当でいいんだよ」と言う.同格の社会的威信を持った二人の同性のロールモデルが全く違う命令を下す.この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている.(中略)

何のためにそんな葛藤を仕掛けるのか,その理由はもうおわかりですね.子どもを成熟させるためです.(中略)子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく,「この人はこう言い,この人はこう言う.さて,どちらに従えばよいのだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです.

最終講義 p.233

ここでようやく主題のキーワードが出てきます.矛盾と葛藤です.私の解釈では,矛盾の渦中で葛藤することで,自ら考え,自らで選び,自らで進むことができるようになるということではないかと思います.「単一のガイドライン」というのは,いわゆる「準備されたレール」のことだと思います.この指摘は,それが正しいかどうかは別として,教師は異論を述べる立場をとりなさいということだと思います.

そして,結論として,以下の言葉に結びつけたいです.

この世界に希望をもつためには批判し続けることこそが必要だ ? Edward W. Said (1935-2003)

このブログでの座右の銘となっているサイードの言葉ですが,実は今まで薄っぺらい理解しかできていなかったようです.今までは「何かを良くしようと思ったら批判して改善していかなくてはならない.そして怠ってはならない」程度の意味だと思っていたのですが,内田先生の言葉から眺めると,また違う側面が見えてきます.つまり,次代を育成する(この世界に希望をもつ)ためには,矛盾と葛藤を与え続ける(批判し続ける)ことが必要だと言っているのではないかと感じます.

まとめ

一番大事なことは,ロールモデルとなる大人たちが異なる価値観を持っているということなんです.同一の価値観に収斂してはならない.「今の世の中はこれでいいんだよ」という人がいたら,「世の中,これじゃいけない」ということを言う人が同時にいなければならない.

最終講義 p.236

知られざる大学教員の生態

このエントリは知られざる大学教員の実態とコンプリメンタリの関係にあります.このようなおちゃらけネタエントリと対をなすことで,事実かどうか分からなくする目的があります.人それぞれ,何かしら考える機会にはなったんじゃないかなと思います.それぞれが思ったことは,それぞれ,その通りじゃないかなと思います.

このエントリでは,私が見聞きした,大学教員の生態を赤裸々に暴露したいと 思います.ただし,全てフィクションであり空想であり妄想です.所属機関とは一切関係ありませんし,特定の人物とは一切関係ありません.信じるかどうか は,あなた次第であると言えましょう.事実は小説よりも奇なり.

大学教員はヌクモリティを求めている

大学教員は孤独で寂しいので,いつも話し相手を求めています.一般的に,その解は学会に求められます.学会はその分野の専門家で構成される組織ですので,何かと話が合う人が大勢います.大学教員はいくつかの学会に所属し,その中にある研究会に所属しています.また,セミナーや会議などもあり,多くの専門家が集まります.こういったイベントは,大学教員が出て来やすいように,春休みや夏休みに設定されていることが多く,それ故に,大学教員は嬉々として参加します.みんながいると楽しいのです.本当は大学の授業でも,嬉々としてそういう話をしたいのですが,カリキュラム上の理由でできません.ですから,授業後に質問しにきた学生は,話したくて話したくてうずうずしている大学教員に捕まってしまうのです.自然のことわりです.

大学教員は嗅覚が鋭い

大学教員の研究能力の高さは専門にだけ特化しているわけではなく,全般的にその能力を発揮します.そのため,学会出張で初めて行く土地に関することもよくリサーチしています.何を食べたらいいか,どこへ行ったらいいか,すべてを調査してから出張します.そのせいで,単独行動していたのに,お店で知り合いにばったり会うなんていうことは日常茶飯事です.珍しいことではありません.

この能力は夜にも発揮されます.初めての土地であるにも関わらず,どこの居酒屋が夜遅くまでやっているかとか,どこの店が美味しいとか,全て調査済みです.しかも,情報共有せずとも,各人がその情報を独立に入手するので,夜が深まって2軒目3軒目と移動していくに連れて,「あれ?ここで飲んでたんですか!合流していいですか?」となって,仲間がどんどん増えていくという不可思議現象が頻繁に発生します.これをアカデミックの群化と呼んでいるという話は聞いたことがありませんけど,面白いから流行らせましょう.

大学教員は寝ない

大学教員は日頃のハードワークに耐える仕様になっているので,寝なくても平気なようです.学会出張すると,話し相手がいっぱいいるので,夜な夜な飲み歩きます.一晩ならいざ知らず,シンポジウムだと2,3日連続開催していたりしますが,至極当然のように,夜な夜な飲みます.飲み歩くだけならよいのですが,朝5時まで飲むなんてことは珍しいことではありません.しかし,早朝まで飲んでいたにもかかわらず,数時間後の早朝のセッションに,不思議と開始前にしれっと会場にいて,なんか作業をしていたりします.しかも,そのまま1日学会に出席して,夜な夜な飲む・・・そんなことを数日繰り返したりします.大学教員にとって,寝ることよりも,仲間と話をすることのプライオリティの方が圧倒的に高いのです.日頃のハードワークは,この時のための訓練のようなものです.

大学教員はとにかく飲む

大学教員は基本的に孤独なので,飲み会があると全力で参加します.翌日に仕事があろうが,出張があろうが,関係なく,終電まで飲みます.何時に始まろうが,終電まで飲みます.みなさん忙しい方が多いので,22時をすぎてから合流してくる人もいます.そんな時間からでも寂しいので,構ってもらいにきます.そして,終電まで飲みます.

研究者は他大学の先生や企業の方などと連携して研究を進めることがあります.そのため,学外に出向いて打合せをすることもあります.外部の方と打ち合わせをして,いい時間に終わったりすると,「じゃぁ行きますか!」ってなります.世の常です.そのため,夕方16時から会議が始まるように設定することがあります.終わり次第,即座に飲みに行くためです.そして,飲みます.もうここまでくると,打合せが目的か,飲むのが目的かわかりません.でも,本当の打合せが飲み会の中盤から終盤に訪れたりするのは,一般的なビジネスと同じなのではないでしょうか.飲んでる時間の長さが全然違いますが.

大学教員は旅行が好き

学会は様々な場所で開催されます.都内もあれば,地方もあります.国際会議は海外で開催され,ハワイやリゾート地で開催されることもあります.大学教員ともなれば,そこそこの会議であれば,大抵通すことができるレベルにあります.そのため,開催地で会議を選ぶという手段をとることも容易です.例えば,行ったことがないからプラハの会議に出すとか,オクトーバーフェストの時期のミュンヘンの会議を探すとか・・・.国内会議であれば,査読なしの場合も多くありますので,道後温泉がいいなとか,沖縄いいなとかで,投稿先を選ぶこともできます.

しかし,職務として出張する以上,観光ばかりをするわけにはいきません.そのため,高度な検索能力を発揮し,綿密な計画を立てることで,超高効率に楽しむことを目指します.もちろん,職務は一切の手抜きをしません.ランチついでにどこかを見てくるとか,セッション終了後から夜の飲み会までの間にちょっと観光するとか,帰路につくまでの間に観光するとか,セッション開始前に早起きして散歩するとか・・・.この適応能力の高さが大学教員なのでしょう.

知られざる大学教員の実態

書かなくてはならないという強い脅迫感でこれを書いています.いや,書き貯めています.皆さんは,大学教員というものがどのような職業であり,日々何をしているのか,よく解っていないと思います.ややもすると,知りたくもないかもしれません.そこで,私が見聞きした,大学教員の実態を赤裸々に暴露したいと思います.ただし,全てフィクションであり空想であり妄想です.所属機関とは一切関係ありませんし,特定の人物とは一切関係ありません.信じるかどうかは,あなた次第であると言えましょう.事実は小説よりも奇なり.

大学教員は寂しい

大学教員は特殊で,同期が数十名から数百名もいる新卒一括採用の企業とは違い,同期は少ないです.しかも,同僚も少なく,企業でいうところのBU程度の人数しかいません.さらに,その数少ない同僚とも,話す機会はほとんどなく,運が悪ければ,1週間誰とも会わないなんてことは珍しくありません.つまり,職場に出勤し,仕事はしていますが,基本的に1人で,誰とも会わないということが起こりえます.これは一般企業では,窓際族と呼ばれる状態であり,通常の心理状態でいられるとは考えられません.

そのような特殊性の中にあって,同僚と飲みに行くとか,同期飲みとか,起こりえません.ましてや,前後の授業や学生の質問対応,訪問者対応,会議などの理由によって,ランチの時間も人それぞれ様々で,一緒にランチというのも容易なことではありません.つまり,大学教員は勤務していながら,ほとんど単独活動に終始するのです.これは寂しいことです.

いや,研究室には学生がいるじゃないかという指摘があります.その通りだと思います.しかし,午前中はいなかったり,午後は授業だったり,夕方はバイトだったりとしますし,基本的に教員と学生の関係ですから,同僚ではありませんし,友達でもありません.人がいれば寂しくないという考え方は,寂しさを経験したことが無い人が絞り出した想像の産物に過ぎません.そのため,結果として次のようなことが起きたりします.

暇ではなく,寂しいのです.インターネット上では多くの人が構ってくれますので,そこに入り浸るのは,至極自然のことです.ですので,日中にインターネットで活動している大学教員を見かけたら,労ってあげて下さい.基本的に,カッツンカッツンの精神状態と思われます.研究室訪問してあげるとか,仕事の振りした電話をしてあげるとか,そういう気遣いが大事だと思います.

http://twitter.com/#!/te_yoshimura/status/173321841346220033

この指摘も的確です.研究室の学生相手に,研究の素晴らしさを得々と説くというのも良いですが,それで毎日は保ちません.しかも,学生はまだ専門家ではないので,興味を示さないかもしれません.そもそも,大学教員であるということは,博士の学位を持つかそれに相当する者であるはずです.博士ということは,曲がりなりにもある分野で最先端を突き抜けたはずですので,自専門の話に付いてこれる人は,それこそ多くはありません.インターネット上を探して数名くらいというところです.ですから,大学教員がインターネットでバカっぽい活動をしていても,優しい目で見てあげて下さい.寂しいんです.決して,サボっているわけでも,専門性がないダメ教員でもないはずです.単なる寂しさの表れです.話を聞いてあげて下さい.そして,相づちを打ってあげて下さい.喜びます.

大学教員は休まない

小中高も同じだと思いますが,児童生徒が休みだからといって,学校が休みだという誤解を持つ人は少なくありません.ことかけて,学生時代に遊び呆けて大した勉強をしなかった人に限って,「大学教員は休んでばっかりだ」などという事実無根の風説を流布します.大学教員が裁量労働制の名の下に,どれだけの労働をしているかを示しましょう.

まず,衝撃を与えるために,師匠が走ると書いて師走である12月頃からの一般的業務スタイルを説明します.しかし,実はそのまえに1年の予定を知っておく必要があります.一般的に,卒業式は3月に執り行われます.卒業式が行われるということは,卒業判定ならびに成績判定が行われる必要があります.成績を付けるということは,定期試験,ならびにそれに関する追試験や再試験が実施されていることでしょう.さて,2月には大学にとって大変重要なイベントである入試があります.大学の規模にもよると思いますが,入れ替わり立ち替わり,2月中のほとんどを入試関連業務に費やすこともあります.ここで,入試関連業務とは,入試実施と採点業務を意味します.また,学部学科や昼夜間,選抜方法など様々なパターンがありまして,実に多数の入試を実施しています.それから,研究室を運営する大学教員には,卒論・修論指導という重要な業務があります.

さて,では12月頃からの一般的業務スタイルを説明しましょう.12月は卒論・修論の追い込みがかかります.それまで大して研究室に来なかった学生も,日頃からコツコツ積み重ねていた学生も,すべからくお尻に火がついて,ハイオク満タンでエンジン全開になります.研究が進むということは,当然ながら研究指導があるわけです.私大だと卒研生が10名を超えることは珍しくないと思います.さらに,大学院進学率の高い大学だと,同時に指導する学生数は,補欠込みのサッカー日本代表くらいはいます.単純にこれだけで,てんてこまいです.さらに,学期末が近づきますので,授業も佳境です.運悪く時期を同じくして,学会発表の締切がやってきたりすると,完全におかしなことになります.IPSJ全国大会やSCISがそれに該当します.

この頃,大学教員は自らの首を絞める実に愚かな行動を取ることが多く観測されます.論文の草稿を閲読や校閲をする場合,学生に対して,このような指示をすることがあるようです.「では金曜日の17時までに提出して下さい.月曜日までには返却しますので,また来週がんばって進めましょう」などと.これは,学生にとっては「土日は休めるぞ!」ということを意味しますが,翻って,教員にとっては,土日で10を超える論文を読んで,赤入れをするということを意味しています.学生はそれぞれ自分の論文だけを見ています.それでも数十ページの卒論や修論になっていることでしょう.しかし,教員はそれを10人分以上も見るのです.1つの論文に赤入れをするのに,およそ1時間はくだらないでしょうから,10人分として10時間は必要です.つまり,土日は普通に仕事をしていることになります.同様のことは年末にもやってきます.「よし!冬休みで実家に帰る前に卒論修論の最新稿を出して下さい.年明けにまた頑張りましょう」と.年末年始も同じことです.学生が動いているときは,教員も当然のように動いていて,学生が休んでるときも,教員は動いているのです.

さて,1月になるとどうなるか.研究指導については,何も変わりません.これは卒論修論発表会まで同様です.少し違うのは,発表練習という新しいタスクが増えます.加えて,この時期は学期末で試験前の最後の講義があったりしますし,センター試験も実施されます.これも大学の規模によると思いますが,センター試験は教職員ともにほぼ総動員です.既にオーバーフローですが,さらに定期試験も行われますし,成績評価も必要ですし,科目によってはレポート課題もあるでしょうから,その採点もしなくてはなりません.こうして,何が何だか分からないうちに1月は終わります.

2月は先に説明したように,入試業務がやってきます.日程的には,定期試験が終わり次第,すぐに始まります.ほぼ1日拘束されますので,研究室に戻るのは日が落ちてからで,目を輝かせた学生たちに出迎えられつつ,研究指導をします.合間を見て,発表練習もします.入試が一段落すると,卒研修論発表会が執り行われ,研究指導は終わりを迎えます.だがしかし,この時期には成績判定が行われ始めるので,成績を付ける業務が現れ始めます.するとどうでしょう.卒業できない学生や赤点で落第の学生が判明し始めます.次にやってくる業務は追試再試です.一般的に,追試や再試は計画的に行われるものではないので,試験問題を予め作っておくことはありませんので,この時期から作ることになります.その後,追再試を実施し,採点し,成績評価を行うことになります.さらに,国公立前期日程入試の終了を受けて,私立は後期日程入試を開始します.一般的に春休みだと認識されている2月はこのようにして過ぎていきます.

3月は入試業務が残る一方で,研究指導がなくなり少し楽になります.しかし,次年度の授業準備や学会活動などがあり,大して暇にはなりません.学務としては,卒業式を終えるまで色々とあり,気が抜けません.こうして,大学教員は年度末に忙殺されます.新年になってから,果たして何日休めているのでしょうか?

このように,年度末は特殊ですが,土日祝日関係なく常に働き尽くすのが大学教員の実態です.当然ながら,冬休みも春休みもありません.夏休みは休もうと思うと休めます.それでも,論文をバリバリ書いて実績を蓄えないとアカデミックポジションを維持できませんので,夏休みこそバリバリ研究をするという大学教員は多いでしょう.研究活動も業務の1つですから,言い換えると,実は休みなんてないのかもしれません.

もう少し補足すると,夏休みは違いますが,春休みと冬休みは何のためにあるかご存じでしょうか.その時期に授業をやってしまうと,完全なオーバーワークで教員がパタパタと倒れていき,実働部隊がいなくなってしまうので,少しは負荷を減らしてやろうというのが真の目的です.つまり,わかりやすくいえば,忙しすぎてマジ意味わかんないからちょっとおまえら学校こないで!っていう期間です.ですから,春休みと冬休みが教員にとって,休みで有り得るはずがないのです.

そして,このようにして,通常業務をこなし,必死で業績を貯める教員が後を絶ちません.その結果,土日祝日関係なく仕事をするので,友人との関係が疎遠になり,孤独化が増していきます.これをアカデミック・デフレ・スパイラルと,今から呼びましょう.ポスドク問題よりも深刻だと思います.ちなみに,土日祝日関係なく働くのは,大学教員だけではなく,小中高の各教員も同様ですので,その辺の偏見は正されるべきです.日曜日に部活の試合があって,それを引率する部活顧問の手当がいくらかご存じですか?バナナはおやつに入りますかレベルです.このように教育業は教員の一方的な愛でのみ,保たれているのです.

大学教員は日々重圧に押し潰されている

大学教員の主たる業務に教育があります.つまり,授業です.授業以外にも教育業務は色々とありますが,ここでは実感しやすい例として,授業を取り上げます.大学教員は教員ですので,いくつかの授業を担当します.

みなさんは,大学教員がどのように授業の準備をするか,ご存じでしょうか.毎年同じことを繰り返しているだけ,なんて思ったりしていないでしょうか.一般的に,大学では授業を履修し試験に合格すると単位が与えられるため,2年連続で同じ授業を受けることはほとんどありません.数少ないその機会を与えられるのが,再履修者とTA(ティーチング・アシスタント.一般的に大学院生が担う.)です.

さて,では,大学教員は毎年同じ授業を繰り返しているのでしょうか.答えは否です.毎年内容が変わっています.むしろ,変わっていなくてはならないはずです.もし,毎年同じ内容で教えているのであれば,そんな教員は要りません.ビデオに撮って流しておけばいいだけです.教師は黒板に対して授業をしているのではありません.学生に対して授業をしています.そのため,毎年変わる学生は,当然ながら理解度も違うし,前提知識も違うし,性格も違う.人数も違えば,男女比も違い,顔も背丈も服装も何もかもが違うのです.もちろん,入試で選抜しているので,学力は大幅に違ってはいないはずですが,雰囲気は異なります.毎年,全く同じ学生に対して授業をやるのであれば,全く同じ授業を繰り返せばよいでしょう.しかし,実際はそうではありません.そのため,大学教員はその時々に適応した最適かつ最良の学びを提供する義務があります.

そのために,大学教員は猛烈な準備を行います.授業で100のことを教えようとした場合,200~300程度の準備が必要になります.実際に授業を行うと,学生の反応や理解度をみて,適応的に授業を進めるため,目標通り100を教えられることもあれば,150を教えることができることもあれば,質問や脇道トークの所為で70程度しか教えられないこともあります.では,100の準備をして,70しか教えられなかったら,その授業は失敗なのでしょうか.否.それは70で最良なのです.講義を進める上ででてきた質問は学生の理解の助けになっているだろうし,70の理解しか得られない状況に100を詰め込んでも,得られる成果は100に達しません.その時々に合わせて,最適な授業をオンデマンドで組み立てる能力が求められます.これは経験や勘ではありません.綿密な準備と計画の産物です.適当ではありません.

ですので,授業期間が終わると,妙に生き生きとしているのは,この重圧から解放されたからであって,「休みだ!」と思って浮かれているわけではありません.死んだ魚のような目をしていない大学教員を見つけても,「あいつはサボってばっかりだ」などと指を指さないで下さい.心がつぶれてしまいます.でも,安心して下さい.どうせすぐにまた,未熟な自分に焦燥感を覚える日々がやってくるのですから.

最後に

特に言及はせずに,投げっぱなしにしますが,放送大学の「教育と社会(’11)」の第10回からキャプチャした画像を示したいと思います.これは大学教員ではなく小学校教員の例ですが,何かを示唆しているでしょう.

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