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病みながら生きるという生き方

  • 投稿: 2011年10月10日 12:00
  • 更新: 2012年07月03日 13:54
  • 教育

心の健康と病理(’08)第11回からのエントリです.

人間という生物の特性についてはさまざまな説が唱えられてきたが,その特性の1つに「病みながら生きる存在」ということがあげられるのではあるまいか?野生の動物なら,大きな病気や怪我をすれば1日と生きられないであろうが,人間は,大きな病気や障害を抱えながら生きることができる存在なのである.逆にいえば,病みながら生きるという生き方こそが人間に特有な生き方であるともいえるが,特に高齢期にはむしろ何らかの病や障害をかかえながら生きることが普通であることを思うならば,高齢化社会を迎えた今日ほど病みながら生きるという生き方が求められている時代はないといっても過言ではない.

心の健康と病理 p.159

以前,ツイッターだったと記憶しているが(そのくせソースを見つけられないのだが),「人間は医者がいなければ病気や怪我をして自然淘汰されていく.医療費などいらない」などのような主張を見かけた.そんなあなたは生まれてきてすぐに死んだでしょうね,などと思ったのだが,人間は病みながら生きる生き物なのだとすれば,病んでいることは1つの存在の証なのでしょう.

心の健康と病理(’08)第11回では,障害に悩みながら優れた活動をしたベートーヴェンと夏目漱石の2名を挙げて,病みながら生きるという生き方について述べている.ベートーヴェンは20代の頃に聴覚障害を自覚し,32歳の頃には自殺も考えていたらしい.しかし,同じ頃に手紙で以下のようにも書いている.

「芸術が--僕をひきとどめた」

「僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を,全部仕上げずにこの世を去ることは,不可能だと考えられた」

心の健康と病理 p.161

その後,ベートーヴェンは交響曲第3番「英雄」という交響曲史上に残る傑作を書き上げ,「運命」の作曲に取りかかるなど,傑作の森と呼ばれる作品群を書くことになる.「運命」の完成から7年後の1815年10月19日のアンナ・マリー・エルデッディ伯爵夫人に宛てた手紙には,以下のように書かれている.

「優れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜を勝ち得るのだ,と言っても間違いないでしょう」

また,1827年2月17日にヴェーゲラーに宛てた手紙では以下のように書いている.

「僕は我慢して耐えている.そして,あらゆる禍いも時としては何か善いものをもたらすものだ,と考えるのだ」

夏目漱石は約50年の生涯で3度の神経衰弱に陥った時期があるとされている.第1病期は20代後半で,自分が下宿していたお寺の尼たちが自分のことを探偵していると思い込み,東京にいるのが嫌になって松山中学の教師になった.第2病期は30代後半で,英国留学中に下宿の姉妹が自分のことを見張ったり探偵を雇って跡をつけさせていると思い込み,英国人全体が自分を馬鹿にしていると考えたり,帰国してからも鏡子夫人が女中たちを手下に使って小刀細工をしているとか,近所の千駄木の住民が自分に嫌がらせをしたり探偵をしていると思い込むという,追跡妄想を思わせる症状も再び出現していた.第3病期は40代後半で,同様にして幻聴や被害妄想・追跡妄想などの症状が出現していた.

夏目漱石は第1病期では妄想から逃れることで精神的な安定を取り戻そうとしており,松山で取り組んだ文学も俳句という出世間的な色彩の濃いものであった.対して,第2病期では同様の症状にありながら,京都帝国大学教授への誘いを受けながらも,千駄木にとどまる決意を述べている.すなわち,第1病期では病的な体験から逃避するという対応をしていたのに対して,第2病期では病的な体験と闘うという戦闘的な姿勢に変わっている.また,創作も俳句という出世間的なものから,作品を通じて近隣の住民を攻撃するという戦闘的なものになっている.第2病期に書かれた作品である「吾輩は猫である」「坊っちゃん」は,主人公を探偵する周囲の人間と闘うという姿勢が顕著である.そして,第3病期(40代後半)では,自らの体験に基づく精神的な安定法を他人に助言できるまでになっている.

つまり彼らは,病にもかかわらずというよりは,病あるがゆえに傑出した創造的な活動を行い得たという側面をうかがうことができる.病や障害は1人の人間としてのベートーヴェンや夏目漱石にはさまざまな苦悩をもたらしたかもしれないが,作曲家・小説家としての彼らには幸運に作用したということもできるだろう.

本書のまとめでは,以下のように締めくくっている.

しかし,病や障害には人間がいかに努力しようと免れがたいという側面があることも事実で,そのような現実を考えるならば,病や障害が人生において果たす役割を考えることもあながち意味のないことではあるまい.(中略)人生において病むことの意味として考えられるものをあげると,以下のようになる.

  1. 日常的な業務から開放されて休養できる.
  2. 社交や世間体などのために費やす時間が減る.
  3. 行動が制限される分,孤独で内省的になり,感覚的にも敏感・繊細になる.
  4. これまでの生き方を振り返って,自分の人生で真に大切なものを考える機会になる.
  5. 病気をそれまでの生き方に対する警告として受け止め,健康管理に気をつけるなど,自分にとって無理の少ない生き方ができるようになる.
  6. 現実からの距離が取れて,世俗的な価値観を相対比できる.
  7. さまざまな可能性が限定されるために,一点に努力を集中させることができる.
  8. 人生の価値や生きることの意味に対して複眼的かつ非競争的な思考ができるようになり,これまでつまらないと見過ごしてきたことにも新しい意味や価値を見出す.
  9. 人生に対する過大な要求が減り,生きていること自体が素晴らしいと感じられる.
  10. 周囲からの期待が減り,自分本来の道に専念できる.
  11. 自分の限界や弱点を認識して謙虚になり,自分が周囲の支援や犠牲の下で生かされていることに感謝できるようになる.
  12. 人生の悲観的な部分に対する認識が深まるとともに,病を乗り越えることで自信ができ,人生の困難や不条理に対する耐性ができる.
  13. 自分が死すべき存在であることを実感して,仕事の完成に情熱を注ぐ.
  14. 他の病者や弱者に共感的になり,治療的な態度がとれるようになる.
  15. いわゆるminorityとしての立場からの発言や活動ができるようになる.

心の健康と病理 pp.167-168

概ねそうかなぁとは思う.2,3,5,6,8,10,11,14,15あたりはその通りかと思う.ただ,日常的な業務から開放されてもいないし,休養もとれてはない.

職場に行かなければ心が休まるわけではないし,ぽけーっとしてれば心が休まるわけでもない.原稿の締切や査読の締切や学生の研究進捗状況など,なんらかの気がかりなことが心のどこかに留まっていて,少なくとも私の場合は,それが負荷になっている.それが「甘え」だと言われればそうなんでしょう.お前がそう思うんならそうなんだろう,お前ん中ではな.でも実際,CSSの原稿も終わり,節電のため完全休養期間だった今年の夏休み(CSSの原稿があったから後半だけ)は,本当の意味で休めたのだと思う.以降は,比較的調子がよい.

その反面,4,7,9,12,13については全くそのように感じないので,まだまだ病を受け入れるという状態には至っていないのだろう.まだ,UCは2年目で,寛解状態もどこからと見るのかによるけど,アサコールに変わってからとすれば半年程度.自分ができること,やるべきこと,与えられた使命を自覚するのは,まだもう少し先なのでしょう.

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